結衣の「勇気」と零の「拒絶」
瑛理香との「解約」が成立してから、僕を包む空気は一変した。
一条組と鳳家のパワーバランスは急速に冷却され、周囲の大人は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。だが、僕の心を満たしているのは、逃げようのない喪失感……なんて殊勝なものじゃない。肺の奥まで陽葵の匂いで満たされた、脳がとろけるような充足感だった。
そんな折、瀬那結衣から連絡があった。
「一条君。……少しだけ、時間をもらえるかな?」
放課後の旧校舎、夕日が廊下を真っ赤に染めている。結衣はそこに、祈るような姿勢で立っていた。
彼女は、僕が「自由」になったことを知っている。偽りの恋という鎖から解き放たれ、ついにフリーの身になった僕を。
「一条君。私ね……ずっと、言いたかったことがあるの」
結衣がゆっくりと僕に歩み寄る。
彼女が纏う空気は、どこまでも清廉。瀬那家が代々守ってきた「和菓子の聖域」そのものだ。10年前の思い出、交わされた約束。彼女はその思い出を大切に抱え、僕との距離を埋めていく。
「私、一条君が好き。……10年前からずっと。……今も、これからも」
結衣の手が、僕の頬を包み込んだ。
あまりに優しく、慈しみに満ちた接触。
僕は、目を閉じた。
心地よい。それは認めざるを得ない事実だった。結衣の愛は、僕の魂を洗う清流のようだ。彼女を受け入れれば、僕は「一条零」という歪んだ御曹司のまま、穏やかな幸福の中に沈んでいけるだろう。
だが、その瞬間。
僕の細胞が、盛大にツッコミを入れやがった。
いや、結衣の拍動は、あまりに「優等生すぎる」のだ。
僕の中にある「零」という空腹を埋めるには、彼女の愛はあまりに尊く、そして静かすぎる。
僕が求めているのは、そんなお上品な精神的結合じゃない。
陽葵と重ね合う、あの朝昼晩と休む間もなく叩き込まれる怒涛のスキンシップ。あの「呼吸のたびに触れてないと落ち着かない」という異常なまでの相性の良さ。あのアグレッシブな密度なしでは、もはや僕の身体は満足できない仕様に改造されちゃっているのだ。
結衣が、意を決したように僕の唇に触れようとした。
彼女なりの、精一杯の「勇気」。それは僕を精神的な頂点へといざなうはずの儀式。
――けれど、僕はその肩を、優しく、しかし決定的に押し返した。
「一条……君?」
結衣の瞳に、困惑が広がる。
彼女の手から伝わる温もりは完璧なはずなのに、僕の身体は陽葵の時のような「これだよこれ!」という爆発的な快動を拒んでいる。完全に陽葵専用の受信機になってしまっているのだ。
「ごめん、結衣。僕は……君の隣にいると、自分が『贅沢すぎる悩みで贅沢に死んでいく』のがわかるんだ」
結衣の愛は、僕には眩しすぎる。
彼女の清らかさに触れるたび、僕は自分が抱える「常に誰かの肌を求めてしまう」というハングリーすぎる本能を、とんでもない不謹慎のように感じてしまう。
僕はもう、陽葵という、同じ頻度の熱量を共有し、四六時中ベタベタと触れ合うことでしかチャージできない「依存体質」な相棒なしでは、生きていけそうにないんだ。
「一条君。……どうして。私の何がいけなかったの?」
泣き崩れる結衣を置いて、僕は背を向けた。
最愛だったはずの「聖域」に別れを告げ、僕の足は無意識に、あの圧倒的な熱を放つ陽葵の姿を探していた。




