剥がされた仮面
鳳瑛理香という少女は、いつだって「完璧」を体現していた。
伝統あるゼネコン一族の跡取りである僕の前に現れた彼女は、新興IT財閥の令嬢として、不遜なまでの自信と太陽のような熱量を纏っていた。僕たちの関係は、政略的な利害から生まれた「偽り」の恋。冷え切った家同士の均衡を保つための、かりそめの仮面劇。
だが今、その仮面は僕の目の前で、音もなく粉々に砕け散っていた。
「……一条。あんた、わかってるの? この解消が何を意味するか」
学園の非常階段の踊り場。夕闇がすべてを侵食し、僕と彼女の境界線を曖昧にしていく。瑛理香の瞳には、かつての激しい闘志も、奔放な傲慢さも宿っていない。ただ、深い夜の海のような暗い静寂があった。
偽装交際の解消。それは一条組と鳳家が進める合併プロジェクトの頓挫を意味する。僕が将来背負うべき「一」という構造物が、足元から瓦解していく音。
だが、今の僕の耳に届くのは、その崩壊の音よりも、隣り合う校舎で息を潜めているであろう陽葵との、あの完璧な調和のリズムだけだった。
「あんたが選んだのは、あの子なのね。……ううん、言い方を変えましょうか。あんたは、あの子の『温度』を選んだ。私の火傷するような熱じゃなくて、あの子の、凪のように完璧に同期する……あの気味の悪いほどの調和を」
瑛理香は自嘲気味に笑い、一歩、僕に詰め寄った。
彼女が僕の胸元に触れる。
以前なら、この接触だけで僕の脈拍は異常な数値を叩き出していただろう。彼女は暴力的なまでに美しく、触れるたびに生命力を削り取られるような高揚感を与える相手だったから。
だが、今はどうだ。
指先から伝わる彼女の震えに、僕の身体は微塵も揺らがない。僕の中の「零」は、陽葵というピースによって完全に充填され、他のどんな劇薬も受け付けない不感の城を築き上げていた。
「一条、最後に一人の女として聞いていいかしら。……あんたにとって、私の肌は、そんなに居心地が悪かった?」
その問いは、鳳家の令嬢としての矜持をすべてかなぐり捨てた、あまりに剥き出しの「個」としての告白だった。
僕は、沈黙した。
居心地が悪かったわけじゃない。瑛理香との時間は、戦いだった。彼女にふさわしい「一」であろうと背伸びし、無理やり出力を上げた結果、僕の心は磨耗しきってしまった。
対して陽葵は。
彼女との接触は、呼吸そのものだ。意識せずとも吸い込み、吐き出す。生命が本来持っている、生存のための当たり前の循環。
「……沈黙が答え、ね。あんたらしいわ。最後まで私に『合わせる』ことすら放棄するなんて」
瑛理香は手を離した。その指先が、僕の制服から離れる瞬間、物理的な距離以上に決定的な「断絶」が起きた。
「鳳家の娘としては、あんたを、そして一条組を完膚なきまでに叩き潰してやりたい。……けれど。あんな顔をして笑うあんたを見てしまったら、そんな気力すら失せちゃうわよ」
彼女は翻り、階段を降りていく。
その背中に、僕は最後まで謝罪の言葉さえかけられなかった。
謝罪は、彼女に対する侮辱だ。僕はもう、偽りの仮面を被ることはできない。
冷たい夜風が踊り場を吹き抜ける。
仮面を剥がされた僕の顔は、きっと見るに堪えないほど、陽葵を求める「獣」の顔をしていたに違いない。




