瑛理香の「解約」宣告
図書室の重い扉を、僕は逃げるようにして開けた。
背中にはまだ、陽葵の熱い涙の痕と、互いの拍動が混ざり合った余韻がこびりついている。罪悪感と、それを上回るほどの剥き出しの充足感。僕は今、自分でも制御しきれないほど不安定な「一」として、この旧校舎の廊下に立っていた。
だが、その「余韻」は一瞬で氷結することになる。
廊下の突き当たり、夕闇が迫る窓を背にして、一人の少女が立っていた。
黄金色の髪が、雨に濡れた窓硝子からの反射で、ひどく冷たく、鋭く光っている。
「……瑛理香」
その名を呼ぶ僕の声は、情けないほどに震えていた。
瑛理香は、何も言わなかった。ただ、僕と、その後ろで扉を抑えながら立ち尽くす陽葵を、射抜くような視線で見つめている。
いつもなら、彼女は怒鳴るはずだ。高飛車な言葉で僕を罵倒し、暴力的なまでの熱量で僕を圧倒し、ゼネコンとIT財閥の均衡を説き伏せる。それが僕たちの「偽装」という名の日常だったはずだ。
だが、今の瑛理香には、その熱が全くなかった。
「……見てたわ。全部」
その声は、驚くほど静かだった。凪の海のように。
瑛理香はゆっくりと僕たちに歩み寄る。その足音が、無機質な廊下に響く。彼女は僕の目の前で止まり、僕の胸元にそっと手を置いた。
「一条……あんた、今どんな心拍数してるか、自分でわかってる?」
彼女の指先から伝わるのは、かつて親睦会のバルコニーで感じたような「闘争心」ではない。それは、何かを諦めた者の、乾いた冷たさだった。
「私と触れ合う時、あんたはいつも戦っていたわ。私の熱に負けないように、無理やり自分の鼓動を跳ね上げて、必死に私に応えようとしていた。……でも、今のそれは何?」
瑛理香は、僕の背後にいる陽葵に視線を移す。陽葵は、ただ震えながら姉の恋人を「奪った」という現実に立ち尽くしている。
「あの子といる時のあんたは、まるでもう一つの心臓を手に入れたみたいに、完璧に調和してる。……私には、一生かけても入り込めないほど、完成されたリズム」
瑛理香の手が、僕の胸から離れる。
その瞬間、僕たちの間に保たれていた「偽装という名の均衡」が、音を立てて崩壊した。
「一条、あんたと私、今日で恋人同士なんて、おしまい。……今日をもって、この契約を解約してあげるわ」
その宣告は、僕を殺すためのナイフではなく、僕を解放するための慈悲のように聞こえた。
一条組と鳳家の合併、利権争い、伝統と革新。そんな巨大な構造物が、たった二人の「相性」という真実の前に、あまりに脆く瓦解していく。
「勘違いしないで。あんたに愛想が尽きたわけじゃないわ。……ただ、私まで壊れたくないのよ。その完璧な共鳴を前にして、一人で燃え尽きるのは御免だわ」
瑛理香は背を向けると、一度も振り返らずに立ち去った。
彼女の背中が闇に消えていくのを、僕はただ見ていた。
「偽装」という盾を失った僕の前に残されたのは、世界で一番甘美で、世界で一番残酷な、陽葵との「剥き出しの現実」だけだった。




