飢餓による崩壊
陽葵と「補給」を断って、三日が過ぎた。
たった七十二時間。だが僕にとっては、酸素供給の止まった深海で、最後の一呼吸を待ち続ける永遠よりも長く感じられた。
教室の空気は粘りつくように重く、淀んでいる。
一条組の跡取りとして、どんな過酷な交渉も冷徹な利権争いも、鉄の仮面で乗り切ってきた自負があった。だが、今の僕はどうだ。
ノートを取るペン先が、自分の意志に反して小刻みに震え、紙面に歪な黒い線を刻み続ける。視界の端がチカチカと明滅し、教科書の文字は意味を持たない泥のような記号へと溶け落ちていく。
(……くそ、なんだよ、これ……っ)
これは「依存」なんて生易しい言葉では説明がつかない。
瑛理香が放つ、刺すような熱。結衣が纏う、柔らかな聖域の光。
それらがどれほど贅沢に僕の周囲に溢れていても、今の僕には一滴の水にも、一片の糧にもならない。僕という空虚な「零」を、唯一「一」へと押し上げてくれるのは、陽葵との間にだけ流れる、あの猛烈で静謐な「生命の同期」だけなのだ。
ふと視線を上げると、数列前に座る陽葵の背中が見えた。
彼女もまた、限界だった。
いつもなら陽だまりのように周囲を照らしていた彼女のオーラは完全に消え失せ、その小さな肩は、嵐に打たれる小鳥のように強張っている。彼女がページをめくる指先が、僕と同じように激しく震えているのを、僕は網膜に焼き付けた。
その時、陽葵が僕の方を振り返った。
ほんの一瞬。時間にしてコンマ数秒、視線が衝突する。
だが、その瞳に宿った色彩を見た瞬間、僕の理性は粉々に砕け散った。
彼女の瞳は、激しい飢えと、それを凌駕するほどの狂おしい「渇愛」に焼かれていた。
「一条先輩……っ」
声にはならなかった。だが、その唇の動きが、僕の神経を直接かき乱す。
もう、姉への罪悪感とか、婚約の義務とか、そんな薄っぺらな理屈で抑え込める臨界点は、とうに突破していた。
僕たちは、互いの存在なしでは自律神経を維持することすらできない、一つの歪な生態系として完成してしまっていたのだ。
放課後のチャイムが、地獄の鐘のように鳴り響く。
陽葵は弾かれたように席を立ち、教室を飛び出した。
僕はそれを追う。誰の視線も、何の本分も、今の僕の脳には情報として入ってこない。
逃げる陽葵を捕まえたのは、人影の途絶えた旧校舎の、埃っぽい非常階段の踊り場だった。
「……離してっ、先輩……っ、もう決めたんだから……!」
「無理だ。死ぬぞ、僕も、君も」
後ろから強引に抱きすくめた瞬間、言葉を失うほどの衝撃が全身を駆け抜けた。
三日間、氷のように凍りついていた僕の細胞が、一斉に産声を上げ、沸騰を始める。
陽葵の背中から伝わる、暴力的なまでの心音。それは僕自身の狂った心拍と、完璧なシンクロ率で共振を開始した。
「……っ、あ、あぁ……」
陽葵の身体から力が抜け、僕の腕の中に崩れ落ちる。
彼女の目から溢れた涙が、僕の手に触れる。その熱さに、僕は己の罪を、そして救済を自覚した。
これは単なる「補給」ではない。
僕は、この少女を、この不完全な半身を愛している。
彼女の肌に触れることが、呼吸することと同義であるほどに。
世界を敵に回しても、誰の心を壊しても、この「一致」だけは、もはや引き剥がすことはできない。
二人の間に、もう言葉は必要なかった。
剥き出しの恋心が、飢餓という名の触媒によって、修復不可能なほど強固な「生存の契り」へと鋳造された瞬間だった。




