偽りの褥(しとね)
鳳財閥のプライベート・ヴィラは、俗世から切り離された断崖の上に建っていた。一条組と鳳家の「蜜月」を対外的にアピールするための、実務を兼ねたお泊まり行事。
案内された寝室には、広大な海を見下ろす窓と、それを嘲笑うかのように鎮座する、馬鹿げたほど巨大なダブルベッドが一台あった。
「冗談じゃないわ。……あんた、床で寝なさいよ」
瑛理香の声は、打ち寄せる潮騒に混じって尖っていた。だが、その声の端々には、バルコニーでのあの「衝突」以来、隠しきれない震えが混じっている。
「言われるまでもない。僕はソファで十分だ」
深夜、僕はソファの硬さに背中を預け、結衣から預かった古い写真を眺めていた。
結衣の清らかな肌、穏やかな鼓動。それを思い出すことで、今、この部屋に充満している瑛理香の毒々しいまでの生命力から逃れようとしていた。彼女を運命だと信じることで、自身の本能を無理やり鎮める。それが僕にとっての唯一の防壁だった。
だが、冷房の効きすぎた室内で、隣のベッドから聞こえてくる瑛理香の寝息は、重く、湿り気を帯びて、僕の感覚をじわじわと侵食してくる。
「……っ、やめて……離して……」
突然、瑛理香が呻き声を上げた。悪夢にうなされている。
見れば、彼女はシーツを強く握り締め、額に異常なまでの汗を浮かべていた。放っておくべきだった。それがゼネコンの跡取りとしての、冷徹な「正解」だ。だが、僕の身体は、僕の思考がブレーキをかけるよりも早く、ベッドへと向かっていた。
「鳳、おい。しっかりしろ」
彼女の肩に手をかけた瞬間、電流のような衝撃が走った。
熱い。
高熱のボイラー室に放り込まれたような、圧倒的な熱量。瑛理香は、意識を朦朧とさせたまま、僕の腕を掴み、その火照った身体を強引に押し付けてきた。
「……冷たい。もっと……」
彼女にとって、僕の冷感は救いなのだろう。だが、僕にとって、彼女の熱は毒薬だった。
重なり合った肌と肌の隙間から、彼女の狂おしいほどの拍動が、僕の不感症の心臓を無理やり再起動させていく。
ドクン、ドクン、と。
二人の心音が不規則に、しかし確実に一つのリズムへと収束しようとする。結衣の時には決して得られなかった、生存本能そのものを掻き毟るような充足感。脳は「これは間違いだ」と警告を鳴らしているが、僕の指先は、彼女の熱に焼かれる痛みに、抗いがたい執着を感じ始めていた。
これが、鳳瑛理香という女の正体か。
触れれば焼かれる。だが、一度その熱を知れば、二度と静かな凪には戻れなくなる。
僕は彼女を抱きとめたまま、夜の深淵を見つめていた。
もし、この嵐のような接触なしには生きていけない身体になったとしたら。
それは、恋などという甘い言葉では片付けられない、地獄への招待状だった。




