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振袖の沈黙

 新しい年の光が、一条家の広大な屋敷を冷ややかに照らしていた。

 元旦の狂乱めいた儀式が終わり、少しばかりの静寂が訪れるはずの午後。しかし、僕の視神経を焼き切るような鮮烈な色彩が、そこに立っていた。


 瀬那結衣。

 彼女は、淡い桜色の振袖を纏っていた。

 普段の制服姿も可憐だが、今日ばかりは「可憐」なんて言葉じゃ足りない。結衣の持つ清廉さと、伝統的な衣装が持つ気品が溶け合い、周囲の空気さえも澄み渡らせていくような……そんな、神々しいまでの美しさだった。


「零くん。……明けましておめでとう」


 結衣が、少し照れたように袖を揺らす。

 その瞬間、僕の中にあった「10年前の約束」という名の古い鍵が、カチリと音を立てて回ったような気がした。そうだ、僕がずっと守りたかったのは、この清らかな笑顔だったはずだ。瑛理香との偽装、萬里花の執着、冴の献身――それらすべてのノイズを消し去ってくれる、唯一の聖域。


 僕は彼女を誘い、誰もいない離れの和室へと向かった。

 障子越しに差し込む冬の柔らかな光が、畳の上で僕たちの影を長く伸ばす。

 僕は、祈るような気持ちで結衣に触れた。この美しさ、この愛おしささえあれば、僕の内に潜む「化け物」も静まるのではないか。そう信じたかった。


 振袖が、重なり合うたびに絹擦れの音を立てる。

 結衣の肌は、触れるのがためらわれるほど柔らかく、そして温かかった。彼女は僕のすべてを受け入れようと、たどたどしくも懸命に身体を預けてくる。その心根の美しさに、僕は何度も自分を恥じた。


 だが。

 何度彼女を抱き寄せても、どれだけ深く彼女の体温を求めようとしても。

 僕の細胞の隅々まで行き渡るはずの「充足」が、一向に訪れない。


(……足りない。これじゃない。もっと、もっと剥き出しの……)


 結衣の愛は、凪いだ湖面のように穏やかだ。だが、僕が求めているのは、嵐のような共鳴であり、細胞レベルでの暴力的な適合だった。

 結衣は数回の接触で、その白く透き通るような肌を赤らめ、心地よい疲労の中に沈んでいく。彼女にとっては、これが「愛の完成形」なのだ。精神が満たされ、肉体が安らぐ。それこそが健全な恋の形。


 しかし、僕の奥底で疼く「飢え」は、彼女が眠りにつく頃には、以前よりもさらに激しく牙を剥き始めていた。

 

 眠る結衣の美しい横顔を見つめながら、僕は理解してしまった。

 いくら美しい衣装を纏っても、いくら清らかな心を持っていても。僕という人間の欠落した凹凸に、完璧に噛み合うのは彼女ではない。

 僕が求めているのは、この美しい振袖を脱ぎ捨てた先にある「安らぎ」ではなく、陽葵ひまりと交わした、あの呼吸さえも奪い合うような死闘に近い、生命の連鎖なのだ。


 僕は静かに立ち上がり、乱れた呼吸を整える。

 結衣への愛を否定することはできない。だが、僕の本能は、すでに彼女を「運命」として選べないところまで、深く、暗い淵へと堕ちていた。

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