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監視者の影

 深夜の建設現場、まだコンクリートも流し込まれていない剥き出しの鉄骨群を見上げるときの、あの「芯から冷え切った空気」を思い出す。

 華やかな放送が終わり、マイクの電源が落ちた後の、肺に刺さるような静寂。一条組という巨大なゼネコンの跡取りとして生きる僕の日常は、常にその「検閲」の下にあった。


 ポケットの中のスマートフォンが、無機質な振動を繰り返す。父――一条組組長からの「状況を報告しろ」という短い催促と、鳳財閥の動向を探る構成員たちからの忌々しい視線。僕の「偽装交際」は、もはや個人の自由などではなく、数千人の利権と生活を懸けた、失敗の許されないプロジェクトとして24時間体制で監視されていた。


「一条零様。少し、お時間をよろしいでしょうか」


 背後からかけられた声は、一切の情緒を排した完璧なデッド(吸音)状態だった。

 鳳瑛理香の秘書兼ボディーガード、凪冴。

 昨夜、バルコニーで瑛理香と交わした、あの「ビジネスとしての接吻」。その残熱を、彼女の冷徹な眼差しが物理的に削ぎ落としていく。


「昨夜のお嬢様のバイタルデータに、看過できない乱れがありました。貴方が何らかの『過負荷』を与えたと推測します」


 彼女は、ホテルの非常階段の踊り場へと僕を誘い込んだ。外界の喧騒が遮断された、コンクリートの密室。

 冴は僕に詰め寄ると、その驚くほど細く、そして硬い指先を僕の喉元へ押し当てた。頸動脈を直接押さえるその仕草は、抱擁などではなく、家畜の検品に近い。


「……脈拍、上昇。発汗。一条様、貴方はお嬢様との接触に、演技以上の『反応』を示している。それは契約におけるリスク因子です」


 彼女の指は、瑛理香の爆発的な熱量とも、結衣の柔らかい静謐さとも違った。それは、戦うために徹底的に無駄を省いた「機能美」の感触だ。冷たく研ぎ澄まされた金属のような彼女の肌に触れていると、僕の脳内に渦巻いていた不協和音が、ふっと静まるのを感じた。


「解析が必要です。貴方が『誰の何に』反応しているのかを。一条組が送り込んできた『跡取り』という部品に、欠陥がないかどうかを」


 冴は僕の顔に、その感情を殺した顔を近づける。まつ毛の先が触れそうな距離。彼女の瞳には、僕の困惑した顔が歪むことなく映っている。

 

 静かだ。

 あまりに静かすぎて、自分の心音がスピーカーから最大ボリュームで流されているような錯覚に陥る。

 

 彼女の無機質な視線に晒されることで、僕は逆に自覚させられてしまう。

 僕の細胞が、瑛理香の熱に焼かれ、結衣の清廉さに飢え、そして今、目の前の凪という「虚無」にすら、一時の安らぎを見出そうとしている、その「節操のない空腹」を。


「……貴方の反応は、論理的ではありませんね。まるであらゆる刺激を等しく『補給』しようとしているようだ」


 冴が呟く。その瞬間、僕は自分でも気づかないうちに、彼女の手首を強く掴み返していた。

 

 違う。

 補給したいんじゃない。僕はただ、この「零」の状態を埋めてくれる、たった一つの正解を探しているだけだ。なのに、この冷たい指先さえ、僕の飢えた神経を潤すための「冷却材」として消費してしまいそうになる。

 

「一条様。これ以上の接触は解析にバイアスをかけます」

 

 彼女は淡々と僕の手を振り解き、再び瑛理香の影へと戻っていく。

 残されたのは、鉄の匂いと、さらに深くなった僕の「飢え」だけだった。

 

 僕は踊り場の手すりに縋り、荒い呼吸を整える。

 一条組の看板を背負わされ、鳳という牙に噛みつかれ、そして凪という真空に吸い出される。

 

 物語のノイズは、まだ始まったばかりだ。

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