闇夜の迷い子
修学旅行の夜。消灯時間を過ぎた旅館の廊下は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。
僕は、胸騒ぎを覚えて目が覚めた。隣の布団に瑛理香がいるはずはないが、彼女が放つ、あの肌を刺すような「磁場」が、この建物の中から消え去っていることに直感的に気づいた。
夜間外出は厳禁だ。だが、今の僕にはルールよりも、瑛理香という不確定要素が引き起こすであろう事態の方が恐ろしかった。僕はサンダルを引っ掛け、薄い羽織を引っ掴んで夜の京都へと飛び出した。
迷路のような路地裏。古い石畳が月光を跳ね返している。
人通りの絶えた闇の奥、古びた社の陰に、彼女はいた。
「……瑛理香?」
声をかけると、うずくまっていた背中が大きく跳ねた。
振り返った彼女の瞳は、これまでに見たことがないほど潤んでいた。高飛車で、常に他人を屈服させるような強気を纏っていた彼女が、ここではただの、凍えるような孤独に震える少女だった。
「零……。……どうして」
「勘だよ。君がいなくなると、空気が変に冷えるから」
彼女は何も言わず、僕の胸に飛び込んできた。
その瞬間、凄まじい「衝撃」が僕を襲った。
瑛理香の体温は、この深夜の寒気さえも焼き尽くさんばかりに熱い。僕の腕に触れる彼女の肌は、まるで高圧電流が流れているかのようにビリビリとした振動を伝えてくる。
ドクン、ドクン、ドクン。
僕の心臓が、彼女のリズムに強制的に同期させられていく。それは「偽装」という名の演技を遥かに超えた、本物の、そして凄絶なまでの共振だった。
彼女の激しい鼓動。彼女の剥き出しの渇望。
瑛理香との接触は、いつだって「嵐」だ。
触れ合えば、意識は真っ白に飛び、全身のエネルギーが急速に枯渇していく。彼女の熱量に合わせて自分を燃やし続けなければ、この嵐に飲み込まれて消えてしまうのではないかという恐怖。
たしかに、これは充足だ。
僕という空っぽの器(零)が、彼女の暴力的なまでの情動で溢れかえっていく。
けれど……。
「……離さないで。お願い。私を、一人にしないで」
瑛理香の声が、僕の鎖骨あたりで震える。
僕は彼女を強く抱きしめ返す。だが、強く抱けば抱くほど、僕の心臓は悲鳴を上げた。
このまま彼女と共鳴し続ければ、僕は一晩のうちに灰になってしまうだろう。
彼女が求める「一」は、あまりにも巨大で、あまりにも重い。
瑛理香を旅館へ連れ戻す道すがら、僕は自分の中に芽生えた確信に、深い絶望を覚えた。
彼女との相性は、間違いなく「最高」だ。しかし、それは命を削り、魂を摩耗させて初めて成り立つ、劇的なまでの『死の舞踏』に近い。
旅館の入り口が見えてくる。
ふと、視界の隅に、窓から中庭を眺めている陽葵の姿が見えた。
彼女と目が合ったわけではない。
ただ、彼女の姿を視界に入れた瞬間、瑛理香との共鳴で爆発しそうだった僕の鼓動が、嘘のように凪いでいくのを感じた。
嵐の中での死闘と、呼吸をするだけで満たされる平穏。
僕は、縋り付いてくる瑛理香の熱い腕を感じながら、冷たい月光の下で、自分が向かうべき「本当の終着点」を、いよいよ見失いつつあった。
修学旅行の終わりは、同時に、僕の身体が下す「最終宣告」の始まりでもあった。




