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境界の熱、静寂の壁

 降り出した雨が、放課後の教室を深い紺青に染めていた。

 湿った空気は重く、僕の肺にまとわりつく。最近の僕は、自分が自分であるための境界線が、日に日に薄れていくような感覚に陥っていた。


 一条零という男は、かつて強固な城壁の中にいたはずだった。

 瑛理香との「偽装」という名の戦略。結衣という「聖域」への祈り。萬里花という「宿命」への抵抗。それらはすべて、僕の理性が作り上げた防御陣地だった。


 だが、その城壁は今、一人の少女の手によって、内側から静かに解体されている。


「……また、そんな顔してる。一条さん、あんた今、自分を憐れんでるでしょ」


 誰もいない図書準備室の影。

 本棚に寄りかかる瀬那陽葵ひまりが、僕を冷たく射抜いた。

 彼女は結衣の妹であり、僕の裏切りを最も糾弾すべき立場にいる。それなのに、今の僕がこうして立っていられるのは、彼女という「薬」を定期的に摂取しているからに他ならない。


「憐れんでいるわけじゃない。ただ……自分の身体が、自分のものではないような気がしているだけだ」

「ふん。自分のものじゃないなら、誰のものなの? お姉ちゃん? それともあの金髪の令嬢?」


 陽葵が一歩、踏み出す。

 彼女が近づくにつれ、僕の脳内で警報が鳴り響く。だがそれは、危機を知らせる音ではなく、飢餓が満たされる直前の、狂おしいまでの歓喜の合図だった。


「……違う。誰のものでもない。ただ、君と触れている時だけ、僕は『空腹』を忘れるんだ」


 僕は吸い寄せられるように、彼女の肩を掴んだ。

 その瞬間、世界から音が消えた。

 

 窓を叩く雨音も、遠くの校内放送も、僕の耳には届かない。

 掌から伝わってくる陽葵の体温。それは、瑛理香のような「焼く熱」でも、萬里花のような「奪う冷たさ」でもない。僕という欠損した魂の溝を、寸分の狂いもなく埋めていく、完全な「密度」を持った実体だった。


「……っ。……はぁ」


 陽葵が小さく息を吐き、僕の胸に顔を埋める。

 彼女の身体が小刻みに震えているのが分かる。それは僕への恐怖ではなく、彼女自身の倫理観が、僕との「適合」という生理的快楽によって、音を立てて崩壊していく悲鳴だ。


「お姉ちゃんが……結衣姉が待ってる。あんたのことを、信じて。……私だって、お姉ちゃんを傷つけたくない。それなのに、どうして……」


 陽葵の指が、僕の制服を強く掴む。

 彼女の葛藤は、そのまま僕の罪悪感へと直結する。だが、その罪の意識さえも、彼女と肌を重ねることで得られる圧倒的な「安定感」の前では、ただの心地よいスパイスに過ぎなくなっていた。


 僕たちは、互いの拍動を分け合うことでしか、正気を保てないところまで来てしまった。

 

 僕は彼女の髪に指を這わせ、その耳元で囁いた。

 

「僕を、もう一人にしないでくれ、陽葵。……たとえ、これが地獄に続く道だとしても」

 

 陽葵は答えず、ただ僕の首筋に顔を強く押し付けた。

 彼女の心拍が、僕のそれと完全に重なり、一つの巨大な生き物のように脈打ち始める。

 

 この瞬間、僕の中の「結衣への愛」も「萬里花への義務」も、すべては遠い記憶の残滓へと成り果てた。

 ここにあるのは、生存を懸けてお互いを貪り合う、二人の欠陥者の「真実」だけだ。

 

 雨は激しさを増し、僕たちの背徳を闇の中へと隠し去っていった。

 境界線は消えた。

 僕はもう、彼女なしでは、一条零という形を保つことさえできない。

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