凪の迷い
深夜の校舎、屋上へと続く非常階段。
下界の喧騒も、財閥同士の権力争いも、ここまでは届かない。ただ、凍てつくような冬の月光だけが、僕たちの輪郭を冷酷に、そして歪に削り出していた。
目の前には、瀬那陽葵が立っている。
彼女は、僕がこれまで「聖域」として崇めてきた結衣の妹であり、僕の「異常」を誰よりも嫌悪していたはずの少女だ。だが今、彼女の瞳に宿っているのは、軽蔑を通り越した深い諦念と、僕に対する逃れようのない「共犯意識」だった。
「……一条さん。あんた、もう限界なんでしょ」
陽葵の声は、驚くほど静かに僕の鼓膜に沈んだ。
僕の身体は、すでに壊れかけていた。瑛理香の熱に焼かれ、結衣の静寂に窒息し、萬里花の執着に摩耗した僕の神経は、一本の細い糸のように張り詰め、今にも千切れようとしている。
僕は何も答えず、ただ彼女へと手を伸ばした。
指先が彼女の頬に触れる。その瞬間――。
思考が白濁し、世界が強制的に「完成」させられた。
それは快楽なんて生易しいものではない。
バラバラに砕け散っていた僕の意識が、彼女という「核」を中心に猛烈な勢いで再構成されていく。瑛理香たちとの接触で生じていた、あの吐き気を催すような「ノイズ」が完全に消失し、僕の血流は、彼女の拍動と完璧に同期した。
「……っ、……あ」
陽葵が短い吐息を漏らし、僕の胸に額を預けてくる。
彼女の華奢な肩が震えているのは、恐怖からではない。僕たちが、あまりにも深く、そして「汚く」重なってしまったことへの、生理的な戦慄だ。
この充足感を得るたびに、僕は自分の中の「大切な何か」を削り取って彼女に差し出しているような感覚に陥る。陽葵に触れれば正気に戻れる。だが、正気に戻った頭で自覚するのは、姉(結衣)を裏切り続けているという救いようのない罪悪感だ。
「最低だわ。お姉ちゃんを裏切って、あんたみたいなバケモノと……こんなに深く、繋がっちゃうなんて。……でも、離されたら、私、死んじゃう」
彼女の言葉は、僕の喉元を締め上げる鎖のようだった。
そう、僕たちはバケモノだ。
愛や約束といった美しい言葉ではもはや機能しないほどに壊れた僕たちは、この「適合」という名の酸素を吸わなければ、次の数分を生き抜くことさえできない。これは恋ではない。もっと醜く、もっと切実な、生存のための「簒奪」と「依存」だ。
「陽葵。君さえいれば、僕は……他の誰もいらなくなる。それが、どれほど恐ろしいことか分かっているのに」
「……分かってるわよ。私も、あんたがいない世界なんて、もう息の仕方も思い出せない。あんたが私の毒で、私があんたの薬なのよ」
僕たちは、月光の下で、誰にも祝福されない契りを更新した。
それは指輪を交換することでも、愛を誓うことでもない。お互いの脈拍を共有し、この狂った世界で二人だけで、壊れながら生き延びるための、冷徹な生存契約。
抱きしめる腕に力を込める。
肌が触れている間だけは「人間」の形を保てるが、離れた瞬間に再び訪れるであろうあの地獄のような「渇き」を予感し、僕は絶望に似た多幸感に浸った。
ふと、階下から微かな足音が聞こえた気がした。
瑛理香か、萬里花か、あるいは結衣か。
誰が来ても構わない。今の僕たちの前では、彼女たちが掲げる「正論」も「情熱」も、ただの無意味な背景音に過ぎない。
僕は陽葵の髪に顔を埋め、その深い共鳴を全身で味わいながら、密かに祈った。
――どうか、このまま世界が止まってほしい。
そうしなければ、僕はいつか、この「正解」のためにすべてを焼き尽くしてしまうだろうから。
「行こう、陽葵。地獄まで、一緒に」
「……ふふっ。あんたの隣なら、そこが一番お似合いだわ。……ねえ、もっと強くして。忘れられないくらいに」
陽葵は、泣き出しそうなほど残酷に微笑んだ。
僕たちの鼓動は、深夜の静寂の中で、破滅へと向かうカウントダウンのように、一つに重なり合っていた。




