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聖域の境界

 ゼネコン界の巨龍と謳われる「一条組」。その跡取りとして生きる僕の毎日は、厚いコンクリートと強化ガラスで遮断された、無機質な防音室の中にある。

 学園という狭い社会においても、それは変わらない。

 廊下を歩けば、家柄に擦り寄ろうとする連中の卑屈な愛想笑いがこびりつき、背後からは「一条の息子なら、将来の利権は……」という、計算機を弾くような薄汚い囁きがノイズとなって鼓膜を揺らす。

 誰も僕を見ていない。見ているのは、僕という肉体に付随した、莫大な資本と権力の影だけだ。


「おはよう、零君」


 その歪な遮音壁を、いとも容易く透過してくる声がある。

 瀬那結衣。

 彼女は、僕というコンクリートの構造体にとって、唯一の「聖域」だった。

 

 放課後の教室。西日が埃を黄金色に染める中、彼女は僕の隣に座り、ふわりと、石鹸に近い清廉な香りを漂わせた。

 十年前。避暑地の高原で出会い、僕の不感症の回路に唯一の「約束」を刻みつけた少女。

 僕の胸元で冷たい重みを発しているこのペンダントの「答え」を、彼女なら持っているはずだ。そう信じることで、僕は自分が「血の通った人間」であると、かろうじて錯覚することができた。


「……何かあった? 零君、さっきからずっと外を見てる。……また、お父様に何か言われたの?」


 結衣の瞳には、打算も、欲望も、一条組への畏怖も混じっていない。ただ純粋に、僕という個体への案じだけが、水溜りのように澄んで停滞している。

 彼女がそっと、僕の甲に手を重ねた。

 

 その瞬間、僕は息を呑んだ。

 

 静かだ。

 あまりにも、静寂すぎる。

 

 結衣の肌は滑らかで、驚くほど心地よい。精神的には、間違いなく深い安らぎ(凪)を感じている。周囲の汚れたノイズが消え、世界が浄化されていくような感覚。

 

 ――だが。

 僕の「細胞」は、沈黙したままだった。

 

 瑛理香に触れた時に感じた、あのスピーカーが割れるようなノイズ。脳内メーターを真っ赤に染め上げた、あの暴力的な拍動ビート

 結衣の隣にいても、僕の肉体は「ゼロ」のままピクリとも動かない。

 どれだけ繊細で美しい旋律を流しても、スピーカーが断線していて音が鳴らない――そんな絶望的な空虚が、彼女の優しさに触れることで、逆説的に浮き彫りになっていく。

 

「……瀬那。君は、僕といても疲れないか? 僕と一緒にいるだけで、周りからは色眼鏡で見られるだろう」

「え? ……うん、私は、零君といる時が一番、心が落ち着くよ。昔から、変わらないね」


 彼女は微笑む。その微笑みは完璧な正解だ。

 しかし、その「落ち着き」こそが、今の僕には残酷な「飢え」として突き刺さる。

 僕の身体は、生存本能のレベルで、もっと「別の何か」……僕を壊し、焼き尽くし、無理やり『イチ』へと引き上げるほどの劇薬を求めてしまっている。

 

 心では彼女を「運命」だと信じたいのに、指先は彼女の清廉さを、どこか「物足りない」と吐き捨てている。

 精神の救済と、肉体の飢餓。

 この救いようのない乖離が、彼女の美しい横顔を見ているだけで、僕の胃の腑をじりじりと焼く。

 

「ごめん、瀬那。……ちょっと、頭を冷やしてくる」


 逃げるように立ち上がった僕の背中に、彼女の戸惑うような気配が刺さる。

 廊下に出た瞬間、僕は自分の胸元を強く掴んだ。

 

 瑛理香のあの、火傷しそうな熱。

 あんなに不快だったはずの刺激を、どこかで「もう一度」と願ってしまっている自分がいる。

 

 結衣という無菌室の中でさえ、僕の「飢え」は出口を見つけられず、ただ暗い衝動となってのたうち回っていた。

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