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陽葵(ひまり)の潜入調査

 それは、本能が鳴らす警笛だった。


 瀬那陽葵せな ひまりは、自分の胸の奥で、かつてないほど激しい不協和音が鳴り響いているのを感じていた。

 姉・結衣ゆいが「運命の人」だと信じて疑わない、一条零。

 ゼネコン財閥の跡取りであり、鳳瑛理香エリカという婚約者までいながら、姉の心までも奪おうとしている男。

 陽葵にとって、零は「不潔で、不誠実で、姉を汚す害獣」そのもののはずだった。


 けれど。

 あの日、雨の中で彼と触れ合った瞬間、彼女の指先を駆け抜けた、あの痺れるような「肯定」は何だったのか。


「……突き止めてやる。あの男の正体を」


 陽葵は、放課後の校舎の影に身を潜めた。

 彼女の目的は、零が瑛理香と交わしている「偽装」の証拠を掴み、彼を姉から遠ざけること。

 けれど、尾行を続けていくうちに、陽葵は奇妙な違和感に気づき始める。


 一条零という男は、一人でいる時、驚くほど「から」なのだ。

 

 誰とも接していない時の彼は、まるで魂の抜けた彫像のようだった。

 呼吸は浅く、視線はどこか遠くを彷徨い、その肌は冬の石のように冷え切っているように見える。

 ところが、彼が誰かと「物理的な接触」を持った瞬間――例えば、瑛理香と腕を組んだり、あるいは凪冴さえとすれ違って肩をぶつけたりした瞬間――彼の全身には、まるで急速に電力が供給されたかのような、生々しい「脈動」が宿るのだ。


「何なのよ、あの男……。まるで、誰かの熱を吸い取らないと死んじゃう、吸血鬼みたいじゃない」


 陽葵は、その光景に嫌悪感を抱きながらも、同時に、形容しがたい「渇き」を自分の喉に感じていた。

 彼女自身もまた、幼い頃から、人一倍強い「触れ合い」への欲求を抱えていたからだ。

 言葉でのコミュニケーションでは満たされない、細胞レベルでの充足。

 

 夕暮れの図書室。

 零が一人、資料を探している隙を見て、陽葵は抜き足差し足で近づいた。

 証拠を掴むためではない。

 自分の中に渦巻く、この「不快な共鳴」の正体を確かめるために。


 彼女が零の背後に立ち、その制服の袖を、ほんの少しだけ掴んだ。


 その瞬間だった。


 ドクン、と。

 

 世界から音が消えた。

 陽葵の指先から、零の身体へと、まるでダムが決壊したかのような勢いで「何か」が流れ込んでいく。

 それは熱などという単純なものではなかった。

 

 互いの脈拍が、まるで一つの生き物のように完璧に重なり合う。

 瑛理香との時に感じた「火傷」のような衝突でもなく、結衣の時に感じた「霧」のような曖昧さでもない。

 

 あまりに純粋で、あまりに濃密な、透明な循環。

 

「……ひまり?」


 零が振り返る。

 彼の瞳は、先ほどまでの「空」な状態とは打って変わって、恐ろしいほどの密度で陽葵を見つめていた。

 

「……あんた。あんた、さっきまで死んでたみたいだったのに」


 陽葵は震える声で呟いた。

 零の手が、陽葵の肩に置かれる。

 その感触だけで、陽葵は自分の意識が白く染まっていくのを感じた。

 

 朝、昼、晩。

 自分の人生を維持するために、欠かすことのできない「何か」。

 この男は、それを、自分と同じ周波数で持っている。

 

「離しなさいよ、この変態」

 

 強がりの言葉を口にしながら、陽葵の指先は、零のシャツを離すことができなかった。

 

 姉さんを騙せても、私は騙せない。

 けれど、私自身の肉体が、この「最悪な男」との共鳴を、命を繋ぐための唯一のかてとして認識し始めてしまった。

 

 潜入調査という名の「自覚」への旅。

 陽葵は、自分が守ろうとしていた姉の恋を、自分の「本能」が内側から食い破り始めたことを、認めざるを得なかった。

 

 図書室の窓から差し込む夕日は、血のように赤く、二人の重なった影を床に深く刻み込んでいた。

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