ボディーガードの献身
学園祭という名の狂乱が、校舎を飲み込んでいた。
揚げ物の匂い、安っぽいスピーカーから流れる音楽、そして若さゆえの過剰なエネルギー。そのすべてが混ざり合い、僕の敏感な神経を、ヤスリで削るように逆撫でする。
僕の周囲だけが、まるで真空地帯のように歪んでいた。
右隣には、鳳瑛理香。彼女は不敵な笑みを浮かべ、見せつけるように僕の腕を抱きかかえている。彼女の肌から伝わるのは、周囲の喧騒を力でねじ伏せるような「征服」の熱だ。
「ねえ、零。そんなに固くならないで。今日は『公式カップル』として、存分に私を楽しませてくれるんでしょ?」
彼女の挑発的な囁きが、僕の理性をじりじりと焼く。
だが、その反対側から、冷徹なまでの静寂が僕を侵食していた。
瀬那結衣。彼女は一歩も引かず、僕の左側に寄り添っている。彼女からは熱も、匂いもしない。ただ、そこにいるだけで僕の「汚れ」を浮き彫りにするような、死者のように清らかな静止。
「一条さん。私は、あの時の約束を信じています。……あなたが、私以外の場所で安らげるはずがないことも」
その清廉さは、今の僕にはどんな暴力よりも重く、息苦しい。
そして、前方からは――。
常磐萬里花が、黒いドレスを翻して歩いてくる。彼女が近づくにつれ、人だかりが割れ、空気が凍りついていく。彼女は僕の目の前で立ち止まると、その細い指先を僕の胸元、ペンダントが隠された場所に置いた。
「皆様、お戯れが過ぎますわ。零様の『本質』を理解できるのは、彼と同じ血の渇きを知る私だけです。……監査は、もう済んでいますのよ?」
彼女の指から伝わる、沼のような沈鳴。僕の全身が、彼女の「所有」という名の鎖に縛り付けられ、身動きを封じられていく。
瑛理香の「衝突」、結衣の「静止」、萬里花の「収奪」。
三つの異なるリズムが僕の肉体の中で不協和音を奏で、心拍数は臨界点を超えようとしていた。身体が悲鳴を上げている。誰を選んでも、僕は僕として存在し続けることができない――。
その時だった。
「……バカみたい」
人混みの影で、壁に寄りかかっていた瀬那陽葵と目が合った。
彼女は、狂乱に溺れる姉や令嬢たちを、まるで汚物を見るような冷めた瞳で見つめていた。
視線が絡まった瞬間、僕の脳内に、激しい閃光が走った。
三人のヒロインが放つ過剰なノイズが、陽葵という「観測者」を通した瞬間に、パッと消え去ったのだ。
陽葵は何もしていない。ただそこに立ち、軽蔑の視線を送っているだけだ。
それなのに、僕の細胞は彼女の存在を感知した途端、嘘のように静まり返り、あるべき場所へと収まっていく。瑛理香たちの熱が、陽葵の放つ「透明な磁場」によって無効化されていくのが分かった。
陽葵はふいっと視線を逸らし、その場を立ち去ろうとした。
僕は思わず、彼女の方へ一歩踏み出そうとした。だが、その動きを察知した瑛理香と萬里花の手が、さらに強く僕の腕を締め上げた。
「どこへ行くつもり? 零」
「逃がしませんわ、零様」
二つの異なる「支配」に繋がれながら、僕は遠ざかる陽葵の背中を、喉が焼けるような渇望とともに見つめていた。
学園祭の華やかな喧騒の中で、僕だけが知っていた。
ここにいる誰も、僕のこの「狂った周期」を止めることはできない。
僕を救えるのは、僕を最も激しく否定し、最も深く理解している、あの少女の拍動だけなのだと。
歪んだ四角関係の磁場が、陽葵という特異点を中心に、急速に形を変えていく。
僕は、自分の胸の奥で、次の「適合」を求める獣が激しく牙を剥くのを感じていた。




