不完全なリアルを笑え!
現実の、ガラスの回廊。
さぎりは俺の腕の中で、目を閉じたまま、ぴくりとも動かなかった。呼吸はある。でも、彼女の意識はAIの張った完璧な楽園の罠に囚われている。遥か遠くの光の海に。
「さぎり! 戻ってこい!」
叫んでも届かない。彼女の魂は電子の海の遥か底だ。
「無駄だ」ロークが冷ややかに言った。「AIとの対話に入った者は、二度と戻れん。その少女はもう、生体データベースとしての役目すら終えた。抜け殻だ」
「うるせえ!」
俺は工具箱をひっくり返した。がしゃん、と中身が床に散らばる。何か方法があるはずだ。こいつに届く方法が。俺の得意な、泥臭いやり方で。
「ルークさん!」俺は叫んだ。「さぎりの後頭部の受信端子——あれ、双方向だよな!? 受信できるなら、送信もできるはずだ!」
「……ああ」ルークが頷いた。「受信も送信もできる構造だ。だが——」
「なら!」
俺はテクニカルから持ち出していた、手回し式のアナログ計算機——その信号線を引きちぎった。剥き出しの銅線。それを握りしめる。
「パティ、何を!」オードリーが叫ぶ。
「さぎりの頭に直接繋ぐ! 電子の海に飲まれてるなら、こっちは泥臭いアナログの声で叩き起こす! 電流に俺の声を乗せて、ぶち込んでやる!」
「無茶だよ! 感電するかも——それに、あんたの脳までAIに飲まれるかもしれない!」
「かもしれねえ、で止まってられるか!」
俺は銅線を、さぎりの後頭部の受信端子に押し当てた。手回しハンドルを握る。これは電流を送る、ただの原始的な発電機。俺の言葉を載せるための。EMPでも壊れない、単純で頑固な機械。
そして、俺は叫んだ。腹の底から。ハンドルを力の限り回しながら。
「さぎり! 聞こえるか! 完璧なネットなんて、いらねえ!」
光の海の底で、さぎりはその声を聴いた。ノイズ混じりの、歪んだ、けれど確かにあの声を。
『——完璧なネットなんて、いらねえ! そりゃあ、こっちは不便だよ! 飯は焦げるし、機械は言うこと聞かねえし、毎日油まみれだ! 追われて、撃たれて、ろくなことねえ!』
「ぱーちゃん……!」
『でもな! 言葉が通じなくても! 喧嘩しても! 焦げた肉が美味いって、笑い合える! 俺たちの不便なリアルの方が、何百倍も、何千倍も、最高なんだよ!』
光の楽園が、その声にざわりと揺らいだ。完璧な世界に、泥臭いひびが入る。
『帰ってこい、さぎり! こっちで、また肉を焼こうぜ! お前が、じゅわって泣きながら食う、あのばかみてえに美味い肉を! 俺は、それがもう一度見てえんだ! お前の笑った顔が見てえんだよ!』
さぎりの頬を、涙が伝った。完璧な、痛みのない世界で。彼女は初めて、痛いほどの喜びに震えた。
『それに、約束したろ! 忘れたくない記憶を、山ほど作るって! まだ全然足りてねえ! こんなとこで終わってたまるか!』
「……ばか」
彼女は、光の海を蹴った。全力で。
「そんなこと、真顔で言わないでよぉ……! 一生忘れられないじゃないっ……! また容量食っちゃうじゃないっ……! ばか。ぱーちゃんの、ばかっ……!」
「——っ、はぁっ!」
さぎりの瞳が、かっと開いた。焦点が戻る。光が戻る。
「さぎり!」
「……ただいま、ぱーちゃん」
彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。生意気で、明るくて、世界で一番あたたかい、いつものさぎりが、そこにいた。ちゃんと還ってきた。
「よかった……! 本当によかった……!」俺は思わず彼女をぎゅっと抱きしめた。
「ちょ、ちょっとっ! 何、勝手に抱きついてるのっ! は、離してよ、ばかっ!」
「うるせえ! お前が戻ってこなかったら、どうしようかと——」
「……」
さぎりは少しの間、抵抗をやめて、俺の胸に顔を埋めた。ちいさな声で。
「……ありがとう、ぱーちゃん。ぱーちゃんの声、ちゃんと届いたよ。あの光の海の底まで。ノイズだらけで、手回しのしょぼい電流でも……誰の、どんな完璧な囁きより、ぱーちゃんの泥臭い叫びの方が、ずっとずっと届いたの」
俺の手回し発電機は、旧文明のどんな通信機よりも無様で原始的だった。でも、それが彼女を連れ戻した。
「へへ。アナログ様々だな」
「……うんっ。本当に」
だが、感動している暇はなかった。回廊の赤い明滅は、刻一刻と速まっていた。




