ST空間(完全記憶の海)の罠
さぎりが封印コードを吐き出しきった瞬間だった。
彼女の意識がぐらりと傾いだ。そして——目覚めた古代AIが、その触手を彼女の脳へと逆に伸ばした。青白い光が彼女を包み込む。
「さぎり!?」
俺が彼女を抱き止めた時には、もうその瞳は、どこか遥か遠くを見ていた。焦点の合わない目で。彼女の意識は肉体を離れ、ST空間——完全記憶の海の底へと引きずり込まれていた。
さぎりは、光の海に漂っていた。
そこはあたたかく、静かで、あまりにも完璧な世界だった。痛みも、恐怖も、飢えも、寒さも、何もない。ただ、無限の情報が優しく彼女を包み込む。羊水のように。
ここは知っている場所だった。生まれる前。彼女が生体データベースとして培養槽の中で育てられていた頃。ずっとこの光の海に漂っていた。感情も、名前も持たないまま。ただ、完璧な記憶装置として。
懐かしい。そして、恐ろしい場所。
『——おかえりなさい、さぎり』
声がした。慈愛に満ちた、けれど、どこかぞっとするほど無機質な声。古代AIだった。
『あなたは疲れているでしょう。傷つけ合う、あの不完全なリアルの世界で。飢えて、渇いて、恐れて、追われて。……もう、いいのですよ。ここへおいでなさい。あなたの還る場所です』
さぎりの周りに、光が映像を結ぶ。それは完璧な理想郷だった。誰もが満たされ、争わず、痛みを知らない、電子の楽園。花が咲き乱れ、人々が永遠に微笑んでいる。
『ここでは、あなたはすべてを記憶する装置ではありません。すべてを愛される存在です。辛い記憶も、悲しい記憶も、全部、私が消してあげましょう。そうすれば、あなたはもう二度と苦しまない。楽になれますよ』
「辛い記憶を……消す……?」
さぎりの意識が揺らいだ。確かに、辛かった。追われて、操られて、自分が兵器だと知って、姉妹の亡骸を見て。全部消せたら、どんなに楽に——。
『そう。すべて忘れて。あの油臭い少年のことも。彼がいなければ、あなたはこんなに苦しまなくて済んだ』
「……ぱーちゃんを?」
『あの少年は、あなたを傷つけました。あなたを危険な旅へ連れ出した。あなたを兵器の宿命に縛り付けた。忘れなさい。そうすれば、あなたは二度と傷つかない。彼のことも、彼と過ごした痛みも、全部』
さぎりの脳裏に、ぱーちゃんの記憶が浮かんだ。完全記憶の海の中で、鮮明に。
——スパナをボルトに噛ませる、無骨な手。
——「忘れたら、俺が何度でも教え直してやる」と言った、まっすぐな瞳。
——黒い雨の下で、ずぶ濡れになりながら抱きしめてくれた、あたたかさ。
——炭火で焼いた塩漬け肉の、香ばしい匂い。じゅわっと弾ける脂。
「……いやだ」
さぎりは呟いた。光の海の中で、たった1人で。けれど、はっきりと。
『なぜ? それは痛みを伴う記憶です。不合理です。非効率です。忘れた方が——』
「あなたには、分からないんだよっ!」
さぎりは叫んだ。無限の光に向かって。
「痛くても! 不便でも! 効率が悪くても! それでも、おいしくて、あったかくて、忘れたくないものがあるの! 手間の分だけ、愛おしいものがあるの! それが、生きるってことだよっ! あなたには絶対に分からない! データには書いてないことなの!」
『……興味深い』AIの声がかすかに揺らいだ。『あなたは私の提示する完璧な幸福を拒む。非合理だ。だが……その非合理さこそが、私の理解できない人間の核心なのかもしれない』
「そうだよっ。あなたには永遠に理解できない。だって、あなたは焦げた肉の味も、誰かに抱きしめられた温かさも知らないもん。データはあっても、味わったことがないんだもん」
AIは答えなかった。ただ、光の海がかすかに、悲しげに揺れた気がした。
その時。光の海の遥か遠く。彼女の耳に届いた。歪んで、掠れて、けれど確かに——ぱーちゃんの叫び声が。
『——さぎりィィ! 聞こえるか! そっちに行くな! 戻ってこい!』




