偽装の限界
限界だった。
精神が求める「聖域」と、細胞が悲鳴を上げる「生存」。その乖離は、もはや精神論で誤魔化せるレベルを超えていた。
結衣と過ごした図書室の、あの清らかな静寂。
それは本来、僕にとっての救いのはずだった。なのに、そこを出た瞬間の僕を襲ったのは、救済の余韻ではなく、肺から酸素が抜けていくような、耐えがたい焦燥だった。
心臓が、僕の知らないリズムを刻もうとしている。
朝、目が覚めた瞬間の渇き。昼、誰の目も届かない場所で満たしたはずの、あの痺れるような安堵。
それなのに、日が暮れる頃には、また僕の中の「空」が、すべてを飲み込もうと口を開けている。
「……一条、あんた何やってんの。こんなところで」
校舎裏。人気のない非常階段の影。
僕の前に立ちはだかったのは、鳳瑛理香だった。
夕闇の中で、彼女の放つ熱量はいつも以上に苛烈で、鋭い。
「鳳……。悪い、今日はもう帰る。偽装の打ち合わせなら、明日――」
「よく言うわよ。さっきまで瀬那とベタベタしてたクセに。……あんた、自分の顔、鏡で見たことある?」
彼女が僕の胸元を掴み、強引に引き寄せる。
瑛理香の指先が僕の肌に触れた瞬間、火花が散るような衝撃が走る。
だが、それはあの「循環」とは決定的に違っていた。彼女の熱は、僕を焼き尽くそうとする略奪の熱だ。
「……震えてるじゃない。あいつじゃ、足りなかったわけ?」
瑛理香の瞳に宿るのは、偽装恋人としての「義務」ではない。
それは、伝統的ゼネコンの跡取りである僕を、IT財閥の支配欲で塗りつぶそうとする、剥き出しの「独占欲」だった。
「離せ、鳳。君に、僕の何がわかるっていうんだ」
「わからないわよ! あんたが何を抱えて、何に飢えてるかなんて! ……でも、あんたのその心臓の音は、嘘をつけないみたいね」
彼女の掌が、僕の左胸に押し当てられる。
ドク、ドク、ドク……。
瑛理香の激しい鼓動と、僕の狂った拍動が衝突し、不協和音を奏でる。
それは刺激的で、官能的ですらあった。でも、違う。
僕が求めているのは、魂を削り合う「衝突」ではない。自分という存在を肯定してくれる「調和」なんだ。
「痛いよ、鳳……」
彼女の爪が、僕の腕に食い込む。
その痛みは、偽装という仮面が剥がれ落ちる音だった。
瑛理香は僕を睨みつけ、震える声で吐き捨てる。
「……偽物でいいって、そう決めたのは私の方なのに。……なんで、あんたを誰にも渡したくないなんて、思っちゃうわけ?」
彼女の唇が、僕の言葉を封じるように重なった。
暴力的なまでの熱。
零を焼き払おうとするような、鳳凰の炎。
だが、その熱に晒されながらも、僕の脳裏をよぎるのは、つい先ほど、誰もいない場所で交わしたあの「静かな共鳴」の残響だった。
瑛理香とのこの激しい衝突も、僕の身体を真に鎮めるための「答え」にはなり得ない。
僕は、自分を求める瑛理香の肩を、突き放すことも、抱き寄せることもできずに立ち尽くした。
偽りの恋が、最も生々しい「執着」へと変質し、僕を殺しに来ている。
空はもう、完全に夜の色に染まっていた。
僕の身体は、今日という日の「完成」を奪われたまま、絶望的な夜へと沈んでいく。




