深淵の瞳
もし人生に「一時停止ボタン」があるのなら、僕は間違いなく今、そのボタンを親の仇のように連打していただろう。
常磐萬里花。
一条組の帳簿を、鳳財閥の株価を、彼女の一族がその気になれば、僕たちの「偽装」もろとも一夜で灰にできる。そんな「格付けの支配者」の娘に腕を引かれ、僕は連れ去られた。行き先は、学園の喧騒から隔離された、あまりに静謐で、死の匂いがするほど整った彼女の自室。
「……やっと二人きり。ああ、この時をどれほど夢見たことか」
萬里花は、僕をソファに押し倒すわけでも、荒っぽく扱うわけでもなかった。
ただ、陶器のような肌を寄せ、僕の膝の上にその細い体を「置いた」のだ。
――冷たい。
触れた瞬間に脳が警告を鳴らす。
瑛理香の熱は、衝突であり戦いだった。
陽葵の共鳴は、欠けたピースが嵌まる安堵だった。
だが、萬里花の肌は、僕の生命力をじわじわと吸い上げ、彼女の空虚を埋めるための「濾過器」のように機能する。
「零様。10年前のあの場所で、貴方は仰いましたわ。私がこの世で唯一、貴方の『鍵』に適合する存在だと」
「……萬里花、それは子供の頃の話だ。今の僕は――」
「今も昔もありません。私には、貴方しかいないのですから」
彼女の指先が、僕の喉仏をなぞる。
その感触は、愛撫というよりは「検品」だ。
彼女の瞳には、狂信的なまでの純粋さが宿っている。それは常磐一族が企業の価値を冷徹に数値化するように、僕という人間に「唯一無二の価値」を付与し、それを一生固定してしまおうとする呪い。
彼女は僕の胸元に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「……あら、嫌ですわ。少し、別の女の匂いがします」
その瞬間、彼女の細い肩が微かに震えた。
恐怖。
僕が感じたのは、彼女に対する恐怖ではなく、彼女が抱える「底なしの飢え」に対する恐怖だった。
彼女と肌を重ねることは、共鳴ではない。
一方的に奪われ、削られ、彼女の望む「一条零」という偶像の中に封じ込められること。
萬里花は僕の首筋に、そっと、それでいて逃げられない強さで歯を立てた。
「いいですわ、零様。その汚れも、私がすべて上書きして差し上げます。朝も、昼も、晩も。貴方が私のこと以外、何も考えられなくなるまで……」
彼女の細い腕が僕の背中に回り、まるで岩のように重く、僕を縛り付ける。
この閉ざされた部屋で、彼女の放つ冷たく重い執着に晒されながら、僕は激しい目眩を覚えた。
不一致ゆえの「熱」でもない。
適合ゆえの「凪」でもない。
そこにあるのは、自分を「零」にすら戻させてくれない、完膚なきまでの「所有」だった。陽葵との接触で得たはずの「自分の輪郭」が、彼女の重圧によって歪み、書き換えられていく。
「常磐……離せ。僕は……」
「いいえ、離しません。一生、絶対に」
彼女の瞳の深淵に吸い込まれそうになりながら、僕は必死に陽葵のあの「静かな拍動」を思い出そうとしていた。
だが、萬里花の放つ圧倒的なエネルギーは、僕の心拍を強制的に彼女の「狂気のリズム」へと同調させていく。
物語の歯車が、最悪の精度で噛み合い始めた。
この「監査」からは、たとえ死んでも逃げられない。
僕は、彼女の冷たい腕の中で、初めて自分の「本能」が、生存のために激しく警報を打ち鳴らしているのを自覚した。




