執念の再会
平穏という名の「偽り」が、音を立てて崩壊する瞬間というのは、往々にして予測不能な方向からやってくる。
鳳瑛理香との、火傷しそうなほど過剰な熱に浮かされた「偽装交際」。
瀬那結衣という聖域への、届きそうで届かない精神的な憧憬。
そして、陽葵との間に芽生え始めた、生存本能に直結する「静かな適合」。
綱渡りのようなバランスで保たれていた僕の日常は、その日の朝、学園の正門を潜った瞬間に、文字通り「圧殺」された。
「……見つけた。やっと、やっと見つけましたわ、零様!」
鼓膜を震わせる、鈴を転がすような、しかし地を這うような執念を孕んだ声。
次の瞬間、僕の視界は「黒」と「白」に塗りつぶされた。凄まじい衝撃と共に僕の胸元に飛び込んできたのは、一人の少女だった。
常磐萬里花。
企業の生死を掌一つで決める「常磐金融監査グループ」の令嬢。僕たち一条組にとっても、提携先の鳳財閥にとっても、逆らうことのできない「審判者」の娘。そして僕の記憶に「許嫁」という不吉なラベルを貼って居座り続けていた、あの少女だ。
「なっ……何をする、離せ!」
「嫌ですわ! 離すわけがありません! この日のために、私は万里の道を越え、果てしない時間を耐え忍んできたのですから!」
彼女は、衆人環視の真っ只中であることを微塵も厭わず、僕の腰にその細い腕を回し、限界まで密着してきた。
――重い。
それは物理的な体重の話ではない。彼女が放つ、抗いようのない「所有欲」という名の質量だ。彼女の一族が企業の帳簿を暴くように、僕の皮膚の下にある隠し事すべてを、その細い指先で抉り出そうとするような圧迫感。
萬里花の身体は、驚くほど細く、頼りなげだ。だが、その肌が僕の制服越しに触れた瞬間、僕の背筋に走ったのは、瑛理香の時のような「火」でも、陽葵の時のような「凪」でもなかった。
それは、底なしの沼に足を取られるような、暗く深い「沈鳴」の感覚だった。
彼女の体温は、微熱を帯びてじっとりと僕に絡みつく。
まるで、僕という存在を隅々まで侵食し、彼女の一部として同化させてしまおうとするような、略奪の拍動。
「零様……貴方の匂い。ああ、少し変わりましたわね。でも、分かります。この鼓動、この肌の震え……間違いなく、私の零様ですわ」
彼女は僕の胸に耳を押し当て、僕の心拍を「監査」するように味わう。僕の中の不感症の残滓が、彼女の執拗なまでの肯定に、生理的な恐怖を覚えて悲鳴を上げた。
校門の向こうでは、瑛理香が氷のような視線をこちらに向けて立ち尽くしている。立場上、常磐の娘に不用意な手出しはできない。結衣と陽葵の姉妹も、この異様な光景に言葉を失っている。
萬里花は僕を抱きしめたまま、顔を上げて微笑んだ。
その瞳は澄んでいるが、その奥底には、自分という「岩」を動かすためには何者をも、自分自身の命さえも犠牲にするという、狂気にも似た光が宿っている。
「皆様、ご機嫌よう。今日から、この零様の隣は私が頂きます。……文句は、ありませんわね?」
金融界の帝王の娘としての宣言は、学園の空気を一瞬で凍りつかせた。
僕は彼女の身体を必死に引き剥がそうとしたが、指先が彼女の手首に触れた瞬間、そこから伝わってくる「絶望的なまでの執着」に、動きを封じられた。
彼女の熱は、僕を焼くのではない。僕を、彼女の支配する「逃げ場のない檻」へと引きずり込もうとする。
過去の約束。家の宿命。それらを盾に、物理的な距離をゼロにして迫ってくる彼女の肌は、陽葵との「適合」で得たばかりの安らぎを、容赦なく塗りつぶしていく。
僕は予感する。
この日から、僕の身体は、誰が自分を最も満たすのかという問いだけでなく、誰に「支配されるのか」という恐怖とも、向き合わざるを得なくなるのだと。
萬里花は僕の耳元で、甘く、毒を孕んだ声で囁いた。
「さあ、零様。私たちの失われた時間、……これから、余すところなく埋めて差し上げますわ」
その瞬間、僕の「零」という空洞に、彼女という重い楔が、深く、深く打ち込まれた。




