約束の場所、現在の身体
放課後の部室棟は、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。
西日に焼かれた廊下には、埃のダンスと、遠くで練習に励む吹奏楽部の、どこか物悲しい旋律だけが漂っている。
僕は自分の胸ポケットに収まった「ペンダント」の重みを感じていた。
10年前。霧の彼方で交わした、幼い約束。「将来、再会したら、この鍵で、中を開けて……」。
その言葉は、僕にとっての聖典だった。瀬那結衣という、透明なまでの清廉さを湛えた少女こそが、僕の空虚な人生を完成させる唯一の答えなのだと、自分に言い聞かせてきた。
――だが、今の僕の肉体は、その聖典を「偽書」だと切り捨てようとしている。
先ほど渡り廊下で陽葵に触れた、あの痺れるような残響。
回路のすべてがピタリと噛み合い、ノイズが消え、自分が「自分」として完成したあの数秒間の記憶。それが劇薬のように僕の神経に居座り、ペンダントの鉄の重みを、ただの無機質なガラクタへと変質させていく。
「……一条。あんた、まだそんな死んだ思い出(鉄クズ)に縋ってるの?」
背後から響いたのは、鳳瑛理香の声だった。
振り返れば、彼女は教室の入り口に寄りかかり、西日を背に受けて立っていた。金色の髪が逆光に透け、彼女という存在が放つ圧倒的なエネルギーが、廊下の冷えた空気を強引に書き換えていく。
「……これは、僕にとってのけじめだ。……君には関係ない」
「関係あるわよ。あんたが必死に守ろうとしているのは、思い出なんかじゃない。自分を今の場所に縛り付けておくための『言い訳』でしょ」
瑛理香が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
彼女が近づくにつれ、僕の身体は防衛本能に近い「拒絶」を発し始めた。
以前なら、彼女の熱は心地よい刺激として受け入れられたはずだった。しかし、陽葵という「完全な循環」を知ってしまった今の僕にとって、瑛理香の熱は、僕の回路を無理やり焼き切ろうとする、荒々しい「過電圧」でしかなかった。
「あんたの身体は、もう気づいてるはずよ。……本当の『鍵』が、私のところにあるってことに」
瑛理香の手が、僕の胸元に伸びる。
指先がペンダントを隔てて、僕の心臓の直上に置かれた。
ドクン、と。
心臓が悲鳴を上げた。不協和音が弾ける。
彼女と触れ合うとき、僕の世界は常に「戦場」になる。どちらが先に屈するか、どちらが先に相手の熱に飲み込まれるか。そんな生存を賭けた衝突が、僕の不感症だった細胞を叩き起こしていく。
だが、その刺激はどこまでも「外側」からの暴力だった。
陽葵の時のように、内側から満たされる感覚がない。瑛理香に触れられれば触れられるほど、僕の身体は「違う、これじゃない」と、飢えた獣のように陽葵のあの静かな拍動を求めて、絶望的にのたうち回る。
「……っ、鳳……やめろ」
「やめないわよ。あんたが、その偽物の聖域に逃げ込むのを、私が許すと思う?」
瑛理香の瞳には、征服欲にも似た、剥き出しの情動が宿っていた。
彼女は僕の「零」を、鳳という炎で強引に塗りつぶそうとする。
しかし、その炎に焼かれれば焼かれるほど、僕の脳裏には、陽葵のあの「凪」のような適合が、より鮮明に、より美しく浮かび上がってしまう。
「一条……あんた、今、誰のことを考えてるの?」
瑛理香の声が、低く、鋭い色を帯びた。
彼女の指先が、僕の肌にさらに深く食い込む。痛み。だが、その痛みすらも、陽葵との間に感じた「あの絶対的なドナー感」を際立たせるための背景に過ぎなかった。
約束の場所は、どこか遠い過去にあるのではない。
それは、今、この瞬間、僕の肉体が誰のそれと最も「一つ」に重なるかという、残酷なまでの生体情報の真実の中にこそある。
「……僕は、自分を解析しているだけだ。僕という部品が、機能不全を起こさないために……誰が必要なのかを」
僕は彼女の手を優しく、しかし明確な拒絶の色を込めて押し返した。
瑛理香は、裏切られたような、しかしどこか納得したような表情で僕を見つめる。
僕はペンダントを握りしめた。
この金属の塊も、目の前の情熱的な令嬢も、今の僕の「異常な渇き」を救うことはできない。
結衣、瑛理香、萬里花。それぞれが異なる温度で僕を揺さぶる。
だが、僕の奥底に棲む獣が、その牙を収め、静かに「食事」を終えたような充足感に浸れる相手は、たった一人しかいない。
僕は、陽葵が走り去っていった廊下の先を見つめた。
まだ言葉にできない、しかし否定のしようがない「身体の解」が、僕の中で確かな形を結び始めていた。




