陽葵の不信感
山を下り、日常という名の濁流に再び身を投じても、あの夜の残滓は僕の皮膚にこびりついて離れなかった。
教室の窓から差し込む朝の光は、あまりにも平坦で、白々しい。瑛理香との間に生じた、あの焼き付くような摩擦。結衣という聖域に触れてなお止まなかった、僕の細胞の奥底にある「空腹」。それらすべてを「修学旅行の熱狂」という言葉で片付けようとする周囲の喧騒が、今の僕にはひどく滑稽に、そして恐ろしく思えた。
僕の身体は、すでに飢えていた。朝、目が覚めた瞬間から、指先が微かに震え、思考の端々が煤けたように色褪せていく。誰かの熱を、それも「正しい熱」を補給しなければ、今日という一日を完遂できないという確信。
そんな僕の、皮を一枚剥いだ先にある「異常」を、鋭利なナイフで切り裂くような視線が一つ。
「……一条さん。あんた、昨日からずっと変よ」
放課後。昇降口へ続く渡り廊下で、瀬那陽葵が僕を待ち構えていた。
結衣の妹。姉に似ていながら、その瞳には姉が持たない「現実を直視する冷徹さ」が宿っている。彼女は僕の数歩手前で足を止め、獲物を見定めている獣のような目つきで僕を射抜いた。
「何が変なんだ。寝不足なだけだよ」
「嘘。寝不足とか、そんな可愛いものじゃない。あんた、なんて言うか……『匂い』が変わったわ。腐りかけの機械みたいな、嫌な匂い」
彼女は一歩、踏み込んできた。
その瞬間、僕の頸椎のあたりが激しく粟立った。
瑛理香との不協和音でもない。結衣との静謐な断絶でもない。
陽葵が近づくだけで、僕の血液が、まるであるべき回路を見つけたかのように激しく、しかし驚くほど整然と脈打ち始める。それは、僕という欠損した回路に、適合するプラグが差し込まれようとしている時に生じる、生存本能の「予兆」だった。
「お姉ちゃんは純粋だから、あんたのその……不潔な揺らぎに気づいてないみたいだけど。私は騙せないわよ。あんた、今、本当は何を求めてる?」
陽葵の問いは、僕の急所を的確に突いていた。
求めているもの。それは、愛でも、家の安寧でもない。ただ、この皮膚の下で絶え間なく疼き、僕を狂わせようとする「周期的な飢餓」を鎮めるための、圧倒的な『適合』。
陽葵は僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、さらに距離を詰めた。
彼女がまとっているのは、この世界のどこにでもある、ありふれた柔軟剤の香りだ。けれど、その奥から漂ってくる、彼女自身の生命力が放つ「周波数」。それが、僕の鼓動と共振し、視界を不自然なほど鮮明に塗り替えていく。モノクロだった世界に、劇薬のような色彩が戻ってくる。
「お姉ちゃんを傷つけるような真似をしたら、私、あんたを殺して自分も死ぬから。……本気よ」
彼女の指先が、僕の制服の袖に微かに触れた。
その刹那、僕の脳内を雷撃が走り抜けた。
――これだ。
言葉にする必要さえない。理屈を積み上げる余地もない。
ただ、布越しに指先が触れただけで、僕の神経細胞が「正解」だと叫び声を上げている。
陽葵もまた、息を呑んだのが分かった。彼女の瞳が大きく見開かれ、その中心に宿る強い光が、一瞬だけ激しく揺れた。
彼女は弾かれたように僕から手を離した。
その顔は、恐怖と、嫌悪と、そして抗いようのない「快楽」が混ざり合った、歪な色に染まっている。
「……不潔。最低だわ、あんた……っ」
吐き捨てるような言葉。しかし、その声は震えていた。
彼女も気づいてしまったのだ。自分たちが、どれほど「同質」であるかに。
姉を想う純真な正義感の下で、彼女自身の肉体が、僕という劇薬を「無くてはならない酸素」として認識し始めていることに。
陽葵は逃げるように背を向け、走り去っていった。
後に残されたのは、彼女と接触した部分から全身に広がる、圧倒的なまでの多幸感の余韻。
それは、どんな聖域での癒やしよりも深く、どんな情熱的な衝突よりも、僕という存在を芯から安定させていた。震えていた指先が、嘘のようにピタリと止まっている。
僕は、自分の手のひらを見つめる。
僕の中にある、あの大穴。
周期的に僕の理性を蝕み、誰かの肌を貪り食わなければ正気を保てないという、この救いようのない「欠陥」。
それを埋めることができるのは、家の宿命でも、幼い頃の約束の鍵でもない。
今、僕を蔑み、拒絶しながら走り去った、あの少女の拍動だけなのだ。
夕闇が迫る校舎の中で、僕は一人、自らの業の深さに打ちのめされていた。
僕が求めているのは、愛ではない。
共生という名の、永遠の略奪なのだ。
胸の奥で、次の疼きまでのカウントダウンが始まる。
陽葵。君という光源なしでは、僕はもう、明日を迎えることさえできない。




