黒い雨と記憶のフラッシュバック
プラント起動の兆候に押されるように、俺たちは竪坑への突入を決めた。地下でAIが目覚めきる前に。ロークの野望が成就する前に。
だが、竪坑の縁へ近づくにつれ、空が暗く濁っていった。分厚い雲が太陽を覆い隠す。
やがて降ってきたのは——黒い雨だった。
古代核の名残。ガラス化した大地から立ち上る、放射性の塵を含んだ、粘つく黒い水滴。それが、テクニカルの装甲をじっとり濡らしていく。ぽつり、ぽつりと。やがて、ざあざあと。
「防護マスクを着けろ!」オードリーが叫んだ。「肌に長く触れさせるんじゃないよ! この雨は毒だ!」
俺はさぎりにマスクを手渡した。だが、彼女はそれを受け取らなかった。
さぎりは竪坑の縁に立ち尽くし、降りしきる黒い雨をその大きな瞳に映して、微動だにしなかった。まるで金縛りにあったように。
「さぎり?」
「……見える」
彼女の声は掠れていた。
「見えるの、ぱーちゃん。この雨が、この土地が、さぎりの記憶を呼び覚ますの。ここで何が起きたのか。何千年も前の、あの日の光景が……!」
完全記憶能力。それは、彼女自身が体験していない、この土地に刻まれた悲劇の残響さえも、共鳴して呼び起こしてしまうのか。データとして刻まれた記録が、今、生々しい映像として彼女を飲み込んでいく。
さぎりの体が、がくがくと震え始めた。その瞳に映る。俺には見えない、遥かな過去の地獄が。
「人が……いっぱい、いたの……。子供も、お年寄りも、恋人たちも……。みんな、笑って暮らしてた……。市場があって、花が咲いてて、歌が聞こえて……。それが一瞬で……空が白く光って……! あつい、あついよぉ……! みんな、ガラスになって……! 悲鳴も、あげられずに……!」
「さぎり、やめろ! 戻ってこい!」
俺は彼女の肩を強く掴んだ。だが、彼女の意識は数千年前の閃光に飲み込まれかけていた。焦点の合わない瞳。冷たくなっていく指先。
「なんで……なんでAIは、こんなことを……! さぎりたちが造ったのに……! さぎりたちを守るはずだったのに……! 信じてたのに……っ!」
彼女の頬を、黒い雨と透明な涙が混ざり合って伝う。それは数千年前に死んでいった、名も知らぬ人々の涙でもあるのかもしれない。
俺は迷わなかった。彼女の細い体を、ぎゅっと強く抱きしめた。黒い雨も放射線も構わずに。
「っ……!」
「戻ってこい、さぎり。それはお前の記憶じゃない。昔の、誰かの痛みだ。お前が1人で背負うもんじゃねえ」
「ぱー、ちゃん……」
「俺がここにいる。今、この雨の下で、お前を抱きしめてるのはこの俺だ。過去じゃない。今だ。感じろ。俺の体温を、心臓の音を」
彼女の震えが、少しずつ収まっていく。冷たかった指先に、ゆっくりと体温が戻ってくる。さぎりは俺の胸に顔を埋めて、ちいさく頷いた。
「……ごめん。もう、大丈夫。ありがとう、ぱーちゃん」
俺は彼女の青い髪にマスクを着けてやった。ずぶ濡れの髪をそっと払って。
「無茶すんな。お前が壊れたら、俺が直せなくなるだろ」
「……ふふ。また、それ。人を機械みたいに」
「あ、いや、これは、その」
「……でも」さぎりはマスクの下で、少しだけ笑った気がした。「直してくれるって言ってくれるの、ぱーちゃんだけだよ。……嬉しい」
黒い雨の中、俺はふと聞いてみた。ずっと気になっていたことを。
「なあ、さぎり。お前、怖くないのか。自分の頭の中に、世界を滅ぼせるコードが入ってるって」
さぎりは少し黙って、それからぽつりと答えた。
「怖いよ。ずっと怖かった。さぎりの存在そのものが、誰かを傷つける鍵になるかもしれない。だから、ずっと1人で逃げてたの。誰も巻き込まないように。……でもね、ぱーちゃんに会って、変わったの。この頭は、誰かを滅ぼす道具じゃなくて、誰かを助けることもできるって。ぱーちゃんが、教えてくれた」
「大したことしてねえよ」
「してるよっ。ぱーちゃんは、さぎりの頭の中身じゃなくて、さぎりを見てくれた、最初の人だもん」
俺は何も言えなかった。ただ、彼女のずぶ濡れの手を握った。
だが、その時。竪坑の底から、これまでとは比べ物にならない巨大な機械の呻きが轟いた。地の底が震える。黒い雨が波紋を立てる。
さぎりの表情が引き締まった。彼女は竪坑を見下ろして掠れた声で告げた。
「……目覚める。古代AIが。とうとう完全に、目を覚まそうとしてる」




