暗闇のシンパシー
もし、この世界を司る「脚本家」というやつが実在するのなら、僕はそいつの胸ぐらを引き寄せて、ありったけの皮肉を叩きつけてやりたい。
文化祭の準備中、備品を取りに入った地下倉庫で、落雷による停電。おまけに古びたドアのノブが外側から噛み合い、閉じ込められる。隣には、周囲の目を欺くために「最愛」を演じ合っているパートナー、鳳瑛理香。
「……嘘でしょ。なんでこんなありふれた惨劇に、私が付き合わなきゃいけないのよ」
暗闇の向こうで、瑛理香の尖った声が響いた。
視覚を奪われた空間では、音の輪郭が異様に鮮明になる。彼女の荒い呼吸、苛立ちを含んだ衣擦れの音、そして、彼女という存在が放つ、あの圧倒的な熱。
「僕だって好きでこんなところにいるわけじゃない。……おい、あんまり動くな。余計に空気が薄くなる」
「黙りなさいよ。だいたい、あんたがもっとシャキッとしてれば、こんなことには――」
強気な言葉とは裏腹に、彼女の声が微かに震えていた。
そういえば、彼女は暗い場所や狭い場所が苦手だったはずだ。高飛車なお嬢様の化けの皮が剥がれ、一人の怯えた少女がそこにいる。
僕はため息をつき、手探りで彼女の気配へと近づいた。
一条組の跡取りとして、あるいはこの虚飾の契約の片割れとして、彼女を放置するわけにはいかない。それがたとえ、僕の神経を磨り潰すような行為であったとしても。
「……こっちに来い、鳳」
「なっ……何よ、あんた、こんな時にどさくさに紛れて――」
「いいから。震えてるじゃないか」
僕は彼女の細い肩を引き寄せた。
その瞬間、僕の全身を、暴力的なまでの「過電圧」が走り抜けた。
あつい。
触れた瞬間に、彼女の体温が僕の皮膚を突き抜け、血管の中を逆流していく感覚。
瑛理香の熱は、常に過剰だ。それは彼女の抱えるプライドや、親の期待に応えようとする切実な生命力の塊であり、僕のような冷え切った「零」の人間にとっては、あまりに毒が強すぎる。
彼女は僕の胸に顔を埋め、しがみついてきた。
ドクン、ドクンと、彼女の激しい鼓動が僕の肋骨を通してダイレクトに伝わってくる。それは、愛のささやきなどではなく、互いの存在を削り合うような「衝突」だった。
「一条……熱いわよ。あんたの身体……」
「……そっちが熱すぎるんだ。沸騰してるんじゃないのか」
暗闇の中で、僕たちは互いの呼吸を強制的に共有させられる。
瑛理香の放つ熱は、僕の脳に「警報」を鳴らし続ける。心拍数は跳ね上がり、不快なほどにアドレナリンが放出される。これは調和ではない。二つの異なる波形が、互いを拒絶しながらも、無理やり一つになろうとする不協和音だ。
彼女を抱きしめる腕に力が入る。
守りたいという義務感と、この過剰なエネルギーから逃げ出したいという本能。
僕は彼女の肌の質感、その滑らかさと裏腹な硬さを感じながら、ふと、先日の放課後にすれ違った陽葵の感触を思い出してしまった。
陽葵。
彼女と触れ合った瞬間に訪れた、あの凪のような静寂。
僕という欠陥品が、初めて「本来の姿」に戻ったと感じた、あの完璧な適合。
今の瑛理香との接触には、それがない。
ここにあるのは、終わりのない摩擦であり、魂を摩耗させる熱害だ。瑛理香という熱源は、僕を無理やり「生」の領域へと繋ぎ止めるが、それは同時に僕の内側を焼き尽くす行為でもあった。彼女といる限り、僕は常に戦闘態勢を強いられ、本当の意味での充足へ辿り着くことを許されない。
「……一条。あんた、今、何を考えてるの?」
暗闇の中で、瑛理香が顔を上げた。
彼女の碧い瞳が、僅かな光を拾って鋭く光る。彼女の勘は恐ろしい。僕の腕の中にいながら、僕の意識がここではないどこか――あの陽葵という「絶対的な正解」に向かっていることを、本能的に察知しているようだった。
「……何も。ただ、早く電気が復旧すればいいと思ってるだけだ」
「嘘つき。あんたの心臓、今、一瞬だけ別のリズムで跳ねたわよ。私じゃない誰かを、求めたでしょう」
彼女の手が、僕の首筋に回り、爪が微かに食い込んだ。
痛み。
それこそが、瑛理香との関係を象徴していた。
「いいわよ、一条。あんたが誰を思っていようと、今、この暗闇で、あんたの体温を奪っているのは私よ。……絶対に、離してあげない」
彼女は挑むように、僕の唇に自分のそれを重ねようとした。
その瞬間、重苦しい音と共に、頭上の蛍光灯がチカチカと明滅し始めた。
光が戻る。
一瞬のホワイトアウト。
僕たちは弾かれたように離れた。
そこには、いつもの高慢で完璧な鳳瑛理香が立っていた。頬は紅潮し、肩で息をしているが、その瞳はすでに僕を突き放すような冷たさを取り戻している。
「……やっと直ったわね。さっさと行くわよ、一条」
彼女は一度も振り返らず、倉庫を飛び出していった。
残された僕は、まだ熱を帯びた自分の掌を凝視していた。
身体が、重い。
彼女と過ごした僅かな時間で、僕は一昼夜走り続けたかのような、身を削るような疲弊を感じていた。
これが、この偽装された関係の代償だ。
僕の身体は、瑛理香という「劇薬」に触れるたび、一方で、もっと静かで、もっと深い場所で、あの陽葵との「完璧な共鳴」を、狂おしいほどに欲し始めていた。
自分でも異常だと思うほどの頻度で、誰かの温度を確かめなければ壊れてしまいそうになるこの衝動。
僕は、気づき始めていた。
僕を殺すのは、この「不一致」がもたらす過剰な熱量か。
それとも、陽葵という「唯一の欠片」を求め、際限なく渇望を募らせていく、僕自身の剥き出しの本能か。
文化祭の喧騒が戻る廊下で、僕は自分の中の空洞が、今までにないほど深く、そして暗く口を開けているのを感じていた。




