聖域の献身
深夜、文化放送から流れるノイズ混じりの笑い声のように、僕の頭の中は不謹慎な期待と、吐き気を催すような自己嫌悪で満たされていた。
「一条君……ちょっと、私の部屋に来てくれないかな」
瀬那結衣の声は、雨上がりの午後のように澄んでいた。
瑛理香との、あの暴力的なまでの熱の応酬。首筋に残る生々しい火傷のような記憶。それらを全て洗い流してくれるのは、僕の「理想」そのものである彼女しかいない。そう自分に言い聞かせ、僕は彼女の部屋の敷居を跨いだ。
部屋には、彼女を象徴するような、微かで、それでいて逃げ場のない「清潔な香り」が満ちていた。
「瑛理香さんと、最近仲がいいね」
結衣が、僕の隣に座る。わずかに触れる肩。
瑛理香の時のような、肌を焼く不協和音はない。凪冴のような、凍てつく静寂もない。そこにあるのは、完璧に調律されたピアノの一音のような、正しすぎる接触。
「……別に、あいつとは家の事情でしかないよ」
嘘だ。僕の身体は、瑛理香が放つあの「過剰なエネルギー」を、毒だと知りながら欲していた。だが、目の前の結衣は、僕のその「汚れ」を認めない。彼女は僕のシャツの襟元を直し、指先で僕の胸元をなぞる。
「私、一条君のこと……ずっと見てるから」
彼女が僕を抱きしめる。
柔らかい。あまりにも柔らかく、母性に似た全肯定の抱擁。
……けれど。
僕の胃の腑の底に鎮座する「飢え」が、音を立てて冷えていくのがわかった。
結衣の接触は、僕の魂を救済しようとする。だが、僕の肉体が悲鳴をあげて求めているのは、救済ではなく「補給」なのだ。
彼女の脈拍は、あまりに穏やかで、僕の乱れた波形を優しく均そうとする。
それは「愛」という名の美しい抑制。
(違う。これじゃない)
贅沢な悩みだ。世界で一番欲しかったはずの「約束」が今、腕の中にある。なのに、僕の細胞は彼女の清らかさを「足りない」と拒絶し、さらに深い、剥き出しの刺激を求めて疼きだす。
「……一条君?」
怪訝そうに僕を見つめる結衣の瞳に、僕は自分の「異常」が映り込んでいるようで怖くなった。
彼女に触れれば触れるほど、僕の中の「空」は広がっていく。
精神的な充足のすぐ裏側で、僕の本能は、この平穏をぶち壊すほどの「共鳴」を求めて、暗い闇の奥で牙を剥いていた。
結衣の部屋を出るとき、僕は彼女の優しさに感謝しながら、同時に、死にたくなるほどの空腹を覚えていた。
その時だ。
廊下の曲がり角で、結衣の妹・陽葵とすれ違った。
ただ一瞬、視線が交差する。
彼女の瞳に宿る、僕と同じ「飢えた獣」の光。
その瞬間、僕の止まりかけていた拍動が、一秒間に何度も、狂ったように跳ね上がった。




