タイ返る
18、タイ返る
「どこに行ってたの?」
昼寝を中断されてうまく舌が回らない。
彼はあれからずっと姿を現さなかった。彼に噛みつかれた傷が治ったころ、ニコニコ笑いながら山側から姿を見せた彼に恐る恐るたずねた。
「悪い、なんかケガしたみたいで、長い間気を失ってた」
頭のてっぺんに手のヒラをかざす。頭を下げさせてみると、頭頂部の髪がなくなってところどころかさぶたになっている。私がしたんだけどそのえぐれかたのえげつないこと。
彼の中に狂気が感じられなくて、この数日でのあまりの変わりように混乱してしまう。私が頭をたたき割ったのに、懐っこく寄ってくるのもなんかおかしい。
「どうしたの?」
「たぶん崖から落ちたんだよ。北の崖で倒れてたから」
しばらくは動けないまま倒れていたらしい。
以前のままの屈託のない笑顔で言う。信じられなくてまじまじと顔を見つめても、首をかしげてキョトンとした顔で見返してくる。
彼の記憶が混濁していて記憶喪失かどうかも確かめる術はない。
私は足元に視線をやる。私の足りない部分を少し隠すようにしながら。
一時の狂乱で済むのだろうか?またあんなふうになったらどうしよう?
まったく、こっちの頭がおかしくなりそうだよ。
表面上は島時間でゆったりと時が流れているようでも、私は油断しない。寝る時も距離をとる。勘違いをさせるような行動もとらない。
ただ言えるのは今のところおかしなことはない。腹話術の人形のようでもないし独り言もない。以前の穏やかだったころのように、ルーティンワークが繰り返されているだけ。
私はひどく眠くて、嫌な記憶から逃げるように眠り続ける。いくら寝ても寝たりなく感じていた。時折見た夢の中で、怪物のようになったタイに追いかけられたけれど。すべての夢が足を掴まれたところで目が覚めた。
そして気づいた。
「ねえ、指輪どうしたの?」
「指輪なんかしらない」
私も彼も持ってない。なくしちゃった。あの人の形見だったのに。申し訳ないことしたな。
彼がはじめて指輪を見たのは海の壁の話の後だ。話を聞いてあたしが確認しに行って、頭が混乱したから浜でひとりで寝て、朝ご飯持って来てくれたんだっけ。その時シャツから出てたんだ。それが指輪について話した最初。
次は……北の島に遠泳に行った時だ。あのときは失くしたらいけないと思って彼に預かってもらってたんだ。あたしが頼んだんだよ。
私が足の切断をして混乱していたせいで、このあたりの記憶はあいまいだけれど。彼の指にはまっているのを見た気もする。けれど意識が戻った時には私の首にかかっていたっけ。
そしてあの新月の夜。彼は返してくれと言ったんだ。なぜそんなこと言ったんだろ?もともとは死んで島に流れ着いた人がしていた指輪。それを私が指からはずして……
そういえば刺青があったよね。たしかこんなの。
砂に書いたその模様は『長細いひし形が真ん中で小さい丸にくっついて、その間に大きい丸が三つ』なんとも珍妙なマーク。
そうだ、それに彼は指輪の内側を見ていたっけ。まるで知っていたかのように、イニシャルが彫ってあるのを……
知ってたんだ!以前にも見たことがあったのかもあの人のこと知ってるかも?
そしてタイが狂気にいたのは、あの指輪のせい?
しかし今は指輪は影も形もない。どこかで落してしまった。
「はあ」
ため息をついて水平線を見やると、頭の上からタイが覗き込むように顔を出した。
「どうしたの?」
あっけらかんとした言い方。何か隠しているようには見えない。
「何でもない」
「でもため息。それに顔色悪い」
「大丈夫」
「人はね、大丈夫じゃないときほど大丈夫っていうんだよ」
「本当に大丈夫」
「ほら、そんなにつらそうな顔でなにが大丈夫なの」
タイが横に座ろうとするのを見て立ち上がった。夕焼けはロマンチックすぎる。
そう思った時、目の前が白くなって回転しながら暗闇に落ちて行った。
耳鳴りと共に聞こえてきたのは懐かしい声。
「エイちゃんエイちゃん。あたしだよもうすぐあえるよながいことまってまちくたびれたよエイちゃんはわすれちゃってたけどあたしはずっとここにいたよもうすこしででてくるよでたらあそぼうできなかったことたくさんあたしもいっぱいしたいことあるよ。あともうすこしで」
「…………ミヤ!」
「あ、あたし!いやあ!」
正気づくと悲鳴がしていた。私の悲鳴。暴れる私を押さえていた手を振り払い、慌てて彼から離れる。
止めようとしても止まらない悲鳴。顔を砂にうずめて悲鳴を押し殺す。彼を興奮させたくないから。
暗闇の中、波打ち際に一人座って自分で自分を抱きしめて体をゆする。目をつぶったらまたあの声が聞こえちゃうかも。
一晩中ヴェガを見ながら自分の進むべき道を考える。
○か×か。
イエスかノーか。
表か裏か。
右か左か。
産むか産まないか。




