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第17話 隠し通す手

 朝の光がリビングに差し込み、穏やかな時間が流れていた。

 キッチンからは姉さんが朝食の後片付けをする、小気味よい皿洗いの音が響いている。テーブルの上のコーヒーからは、白い湯気が優しく立ち上っていた。


「ねえ、カズ。今日の予定はどうするの?……… 昨日あんなことがあったんだし、店がないのならあんたは一日中ゴロゴロしててもいいわよ?」


「いや……さすがにそこまで甘えるわけにはいかないよ。少しは店も開けておくし、体調もそんなに悪くないからさ」


 俺は安心させるように笑ってみせた。実際、頭の芯に残っていた倦怠感は幾分かマシになっている。問題なのは、体調そのものではないしね。

 まあ一旦、温かいコーヒーを一口飲んで落ち着こう。俺が手を伸ばしてカップを取ろうとした、まさにその時だった。

 ピク、と右手の筋肉が、俺の意思とは無関係に妙な引きつり方をした。


「……っ?」


 伸ばしたはずの右手が、コーヒーカップの取っ手を弾き飛ばす。そのまま右手は、俺とは違う何か不気味な生物のように蠢き始めた。

 慌てて、左手で右手を押さえてその衝動を抑える。俺が左手で押さえ込んだ直後に、何か違和感を感じ取ったらしい姉さんはこちらをチラッと覗いてくる。


「カズ……? 手、やっぱりまだ痺れてるの?」


 その視線は、俺の両手に注がれる。側から見れば左手で右手を押さえているだけだから、心配してくれたんだろう。


「あ……いや別に、痛くはないよ。ただ、ちょっと……ビリッと来ちゃって。寝違えたのかな?」


 俺はできるだけ不自然に見えないように、滑らかに手を机の下に持っていった。よし、これで一旦は、右手の紋様についてバレる心配はない。


「……本当に大丈夫? 無理しちゃ駄目だよ。それも、昨日の戦いの後遺症かもしれないし…」


「大丈夫、大丈夫! そうだ。ちょっと動かせば治ると思うし、暇だから外にでも行ってくるよ」


「わかった……気をつけてね。何かあったら呼ぶのよ」


 これ以上この場所にいたら、右手の異常が完全にバレる気がする。

 焦る気持ちを悟られないように席を立ち、俺は右手をズボンのポケットに深く突っ込んだ。





 重厚な木製の扉を押し開けると、図書館の独特な静けさと古い紙の匂いが、俺を迎えてくれる。

 俺はポケットに右手を突っ込んだまま、できるだけ自然な足取りで古書エリアへ向かおうとした。

 だが、こういう時にこそビビるようなことが起きるものだ。受付カウンターの奥にいた年配の女性司書が、俺の姿を見るなり優しく微笑んで声をかけてきた。


「あら、あなたは…真依さんの弟さん?」


「え?そうですけど……」


 俺は急に話しかけられたことに驚いて、右手を隠すのを忘れてしまった。

 俺が振り返った時に顔を見たのか、確信を持ったらしいその司書は俺に一冊の本を渡してきた。

 図書館の一般書架には置かれていない、かなり年季の入った一冊の古びた本だ。


「ごめんなさいね、急に話しかけてしまって。私、真依さんから『この一冊を保管しておいて欲しい、今日取りに来るから』と言われてとっておいたんだけど…未だに来る気配がないのよ。今日渡すはずだったのに…明日、私はここにいないから、代わりに真依さんに渡してもらえないかしら」


「……わかりました。えっと、お名前は……」


「私?私はレイラというのよ。それじゃあ風月君、その本をよろしくね」


 俺に渡すや否や、レイラさんはすぐに関係者専用の部屋へと歩いていった。

 よっぽど、早く帰りたいんだろうな…今日も、この本を渡すためだけにここへ勤務してきたのだろう。

 俺はその本をパラパラとめくってみる。その後、吸い寄せられるように奥の静まり返った古書エリアへと向かっていった。



(なんだなんだ…?なんだ、この文字は)


 俺は読み始めて数ページで、その本を閉じた。この本は、俺には到底理解できない。知らない言葉や、知らない単位がうじゃうじゃ出てくる。

 流石、姉さんだ。こんなものを好んで借りるなんて…俺はだんだんと退屈になり、右手に意識を向けてみる。

 この紋様は、どうやったら消せるのか…そうだ、それについて書いてあるものを探そう。これだけ広い図書館なんだから、一つは記述されているものがあるだろう。





 夕方の日差しが窓から入ってきていることに気がついたのは、ちょうど100冊目を読み終わった時だった。

 もう、こんな時間か…昼ごはんも食べずにいたせいで、気づけばお腹は空腹を訴えている。

 俺は家のことを姉さんを任せきりにしていたことを思い出して、急いで図書館をあとにした。



 すっかりオレンジ色に染まった街並みを、足早に歩いて家へと向かう。

 道中では、買い物袋を下げた主婦や、部活帰りらしき学生たちの笑い声が耳に届く。

 早く帰って、夕飯の準備をしないとな…そう思って、ふと自分の両手に目を落とした。


「……あれ」


 俺の左手は、空っぽだった。

 レイラさんから手渡され、姉さんに届けるはずだったあの分厚い古びた本。それをどこに置いたのか、全く記憶にない。

 焦って、あるはずのない近くの茂みを探ってみるが、どこにも見当たらない。


「嘘だろ……あの閲覧机に、置いたままだ」


 自分の右手のことや、残響の手がかりを探すことに必死になりすぎて、肝心の姉さんから預かった本を忘れてきてしまった。

 明日、レイラさんはいないと言っていた。しかも、もうすぐ閉館時間だ。もしあのまま紛失でもしたら、姉さんにもレイラさんにも顔向けができない。


 俺は大きく息を吐き出すと慌てて引き返し、図書館へと続く今来た道走り出した。

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