第2章:境界のほころび⑤
酒場の騒ぎは、まだ終わっていなかった。
ガイの「今日は帰れ」という言葉は、三秒で無効化された。
「いやいや、逆に今帰る流れじゃないだろこれ」
レオンが机を叩く。
「こういう時ってさ、だいたいもう一杯飲むのが正解なんだよ」
「どこの人生のマニュアルだ」
ユウは呆れながらも、結局その場に残っている。
ミアはというと、少しだけ距離を取って座っていた。
いつもより“静かな位置”。
その理由は誰も聞かない。
聞いたら崩れそうな気がしたからだ。
ガイは酒を飲まないまま、ただ周囲を見ている。
戦場じゃないのに、守る目だけが戦場のままだ。
「なぁミア」
レオンが軽い調子で声をかける。
「未来見えるってさ、じゃあ今日の俺の飲みすぎも見えてんの?」
「見えてる」
即答だった。
「うわ、冷た」
「明日、後悔するところまで」
「最悪じゃん俺の人生予告編」
笑いが起きる。
ユウもつられて少し笑う。
その“少し笑える空気”が、逆に怖いくらい自然だった。
ミアはその笑いの中で、ほんの一瞬だけ目を細める。
(……まだ、分岐がある)
心の中でだけそう呟く。
でもその“分岐”は、以前よりずっと細い。
ガイがふと、グラスを置く。
「お前らさ」
全員が少しだけ静かになる。
「明日も同じ日が来ると思ってるか?」
レオンが笑う。
「来るだろ。毎日そうだし」
ユウも頷く。
ミアだけが、少し遅れて視線を落とした。
「来るよ」
そう言ったのはミアだった。
でもその声は、どこか確認じゃなかった。
祈りに近い。
その夜。
店を出たあと、ユウは一人で空を見上げる。
星はある。いつも通りある。
なのに、数が数えにくい。
視線が合わない星がある。
「気のせいか……?」
そう呟いた瞬間、背後でミアの声。
「気のせいにしていいうちは、まだ大丈夫」
ユウが振り返る。
ミアはいつもの顔をしている。
でもその“いつもの顔”が、少しだけズレている。
まるで、昨日のミアをコピーして貼り付けたみたいに。
「なぁミア」
「なに」
「お前、今日ちょっと変じゃね?」
ミアは一拍だけ止まる。
そして、笑う。
「みんなそう言うよ」
その言葉が、やけに重かった。
⸻
その少しあと。
誰もいない路地で、ガイが立ち止まる。
剣は抜いていない。
でも手は、いつでも抜ける位置にある。
「……まだだ」
誰に向けた言葉でもない。
でも確かに“何か”に向けた言葉だった。
⸻
そして酒場の明かりが消えたあと。
誰もいないはずのカウンターに、グラスが一つだけ残っている。
水でも酒でもない。
中身は、空。
なのに、底だけが濡れている。




