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港の灯りはあなたを呼んでいる  作者: 久遠 睦


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9/13

第九章 針路そのまま

直人と会わない日が、三週間続いた。

 最初の数日は、むしろ静かだった。

 朝のメッセージがない。夜にスマートフォンを気にする必要もない。週末の予定を三人分考えなくていい。

 生活は、直人と出会う前の形に戻ったように見えた。

 けれど、美咲自身は同じ場所には戻れなかった。

「なおと、もう来ない?」

 一週間目の夜、花が聞いた。

「今は、ちょっとお休み」

「なんで?」

「大人同士で、考えることがあるから」

「けんかしたから?」

 美咲は少し迷ってから頷いた。

「うん。少しね」

「花のせい?」

「違う」

 今度は即答した。

「花のせいじゃない。大人の問題」

 花は布団の中から美咲を見た。

「花、なおとに来なくていいって言った」

「それを言ったからじゃないよ」

「ほんと?」

「ほんと」

 美咲は花の髪を撫でた。

「嫌なときに嫌って言っていいんだよ。あとで気持ちが変わってもいい」

「じゃあ今は、来てもいい」

「そっか」

「ママは?」

 美咲は答えられなかった。

「ママは、まだ考えてる」

 花はそれ以上聞かなかった。

 直人からは、三日に一度くらい短い連絡が来た。

〈花ちゃん、その後大丈夫ですか〉

〈元気です〉

〈よかったです〉

 それだけ。

 「会いたい」とも、「話したい」とも書いてこない。

 待つと言った言葉を守っているのだろう。

 美咲は、その距離に安心しながら腹も立った。

 もっと追いかけてほしいのか。放っておいてほしいのか。

 自分でもわからない。

 由紀には、「面倒くさいね、美咲」と笑われた。

「わかってる」

「でも、前よりマシじゃない?」

「どこが」

「前なら、怖くなった時点で全部切ってたでしょ。今は考えてる」

 美咲は返事をしなかった。

 考えることは、しんどい。

 終わらせると決めれば楽になる。

 それでも、簡単に終わらせることが花を守ることだとは、もう思えなかった。

 二週間目の雨の夜、インターホンが鳴った。

 美咲の心臓が跳ねた。

 直人かもしれない。

 そう思った自分に驚きながらモニターを見ると、宅配便の配達員だった。頼んでいた教材の追加問題集を持ってきただけだった。

「何を期待してるんだろう」

 荷物を受け取り、ドアを閉めたあと、美咲は苦笑した。

 以前の直人なら、心配だからと突然来たかもしれない。少なくとも美咲は、そういう「情熱的な行動」をどこかで想像していた。

 だが直人は来なかった。

 待つと言ったから、待っている。

 そのことに寂しさを感じる一方で、美咲は少し尊敬もしていた。

 相手の境界を尊重するというのは、何もしないことではない。自分が不安でも、相手の答えを奪わないことなのかもしれない。

 花が寝たあと、追加問題集を開いた。

 最初の問題でつまずいた。解説を読んでもよくわからない。

 以前なら、そこで「やっぱり無理だ」と本を閉じただろう。

 美咲はノートに、わからないところをそのまま書いた。

 翌日、昼休みに動画講義を見直し、それでも不明なところは講座の質問フォームへ送った。

 三日後、講師から返事が届いた。

 理解できた。

 たったそれだけのことが、妙に嬉しかった。

 わからないときに質問する。

 助けが必要なときに、必要な相手へ頼る。

 それは負けではない。

 直人との関係で悩みながら、美咲は仕事でも勉強でも、同じことを学んでいる気がした。

 ある夜、母から電話があった。

 岡山の実家へ最近帰れていないことを謝ると、母は「こっちはこっちでやってる」と笑った。

『あんた、声疲れてるよ』

「勉強始めたから」

『何の?』

 美咲が簿記のことを説明すると、母はしばらく黙り、それから言った。

『美咲が自分のために何か始めるの、久しぶりじゃな』

「花のためでもあるよ」

『そうじゃろうけど。全部花のためにせんでもええんよ』

 胸に何かが引っかかった。

「自分のためにやっていいのかな」

『なんでいけんの』

 母は笑った。

『親になっても、美咲は美咲じゃろ』

 電話を切ったあと、美咲はしばらく泣いた。

 悲しいわけではなかった。

 自分のために何かを選ぶことへ、誰かの許可を待っていたのだと気づいたからだった。

 恋愛も同じなのかもしれない。

 花のためだけに続けるのでも、花のためという理由だけで終わらせるのでもない。

 母親である自分と、一人の人間である自分。その両方で選ばなければならない。

 仕事と勉強は続いた。

 むしろ直人と会わない分、夜の時間が増えた。

 美咲は毎晩三十分から一時間、問題集を解いた。

 ある日、経理担当の主任に呼ばれた。

「高橋さん、簿記二級勉強してるんだって?」

 由紀が話したらしい。

「はい。まだ始めたばかりですけど」

「来年度、経理補助の契約社員枠を作る話があるの。受ける気ある?」

 美咲は息を止めた。

「私が、ですか」

「資格取れたら有利。取れなくても、今の仕事ぶりは見てるから」

 頭の中に、最初に浮かんだのは直人だった。

 知らせたい。

 そのことに気づき、美咲は少し苦しくなった。

「考えます」

 そう答えた。

 昼休み、由紀に報告すると、彼女は自分のことのように喜んだ。

「受けなよ」

「まだ資格も」

「また最終回まで考えてる」

 美咲は笑った。

「ねえ由紀」

「ん?」

「誰かに背中押してもらうのと、その人がいないと歩けないのって、違うよね」

 由紀はしばらく黙った。

「違うんじゃない。押されたあと歩くのは自分だし」

 美咲は頷いた。

 直人に資格を勧められたから始めたわけではない。

 由紀の言葉もあった。自分で制度を調べ、自分で申し込んだ。

 けれど、直人との会話がきっかけの一つだったのも事実だ。

 誰かに影響されることと、誰かに人生を決められることは同じではない。

 美咲はようやく、その違いを理解し始めていた。

 二週間目の土曜日、健一が花を迎えに来た。

「今日はどこ行くの?」

「公園。あと、昼飯」

 健一は花の前にしゃがんだ。

「その前に、花に謝ることある」

 花が首を傾げる。

「この前、幼稚園で大きな声出しただろ。ごめんな」

「なおととけんかした」

「うん。パパが悪かった」

「なおと、パパじゃないって言ってた」

「そうだな」

「パパはパパ?」

「ずっとパパ」

 花が少し笑った。

「じゃあ、なおとと遊んでもいい?」

 健一の顔に一瞬だけ複雑なものが浮かんだ。

 それでも頷いた。

「花が遊びたいならいいよ」

「パパ、かなしくない?」

「ちょっと寂しいときはあるかも」

 美咲は思わず健一を見た。

 きれいごとで「全然平気」と言わなかったことが意外だった。

「でも、花が楽しいことをやめてほしいとは思わない」

 花は納得したように頷いた。

 二人が出かけたあと、美咲は玄関に残った健一の忘れ物を見つけ、階段を追いかけた。

「健一!」

 振り返った健一にハンカチを渡す。

「ありがとう」

 少し間があった。

「美咲」

「なに」

「この前の人と、揉めた?」

「どうして」

「花が、最近会ってないって言ってた」

「……少し距離置いてる」

「俺が原因?」

「原因の一つ」

「悪かった」

「もういい」

 健一は花が少し先へ走っていくのを見た。

「俺が言うのも変だけど」

「変なことなら言わないで」

「その人とどうするかは、美咲が決めたらいいと思う」

 美咲は眉を寄せた。

「何それ」

「俺が口出す筋合いじゃないって、真理子にも言われた」

「真理子さんに?」

「『娘さんを大事に思うのと、元奥さんの恋愛を牽制するのは別』って」

 美咲は少し驚き、そして真理子への警戒が恥ずかしくなった。

「しっかりした人なんだね」

「俺よりは」

 健一は苦笑した。

「ただ、花のことだけは話してほしい。俺も真理子を会わせるときは相談する」

「うん」

 初めて、二人は元夫婦ではなく、花を育てる二人の親として話せた気がした。

 その日の夕方、直人から長めのメッセージが届いた。

〈大阪の案件、受けることにしました。ただ、前みたいに全部自分で抱えない条件で上司と話しました。週に二日は定時で戻る。休日対応は当番制。できるかは始まってみないとわからないけど、仕事をやることと生活を捨てることを同じにしたくないと思っています〉

 その下に続いていた。

〈これは高橋さんに戻ってきてほしいから書いているわけではありません。自分のために決めました。ただ、話しておきたかったです〉

 美咲は何度も読んだ。

 「自分のために決めました」。

 その一文が嬉しかった。

 美咲のために仕事を諦めるのではなく、直人自身が自分の生き方を変えようとしている。

 美咲は返信欄を開いた。

〈私も話したいです〉

 送信した。

 会う約束をしたあと、美咲は一度だけ送信を取り消したくなった。

 話せば、続けるか終わるかを決めなければならない気がしたからだ。

 だが、本当はそうではない。

 話し合うことは判決を出すことではない。わからないままの部分を、わからないと認めるためにも会っていい。

 その考え方を覚えたのも、ここ数週間のことだった。

 三週間ぶりに会った場所は、最初に三人で歩いた旧居留地でも、思い出の多い港でもなく、三宮の普通の喫茶店だった。

 直人は少し痩せたように見えた。

「久しぶりです」

「うん」

 二人とも敬語と普通の言葉が混じった。

 コーヒーが運ばれるまで、どうでもいい話をした。

 寒くなったこと。仕事。花の風邪。

 やがて直人が先に言った。

「幼稚園の日、本当にすみませんでした」

「私もごめんなさい」

「高橋さんは」

「帰れって言ったことじゃなくて」

 美咲は手を組んだ。

「ずっと、直人を試してた気がする」

 直人が黙る。

「花を受け入れられる? 仕事より私たちを優先できる? 助けようとして支配しない? 裏切らない?」

 口にすると、ひどく勝手に聞こえた。

「合格点を取ったら信じよう、みたいに」

「それは……仕方ない部分も」

「でも、直人は試験を受けに来たわけじゃない」

 美咲は首を振った。

「私は傷つきたくなくて、直人をずっと仮採用みたいにしてた」

 直人が小さく噴き出した。

「建築業界より厳しい」

「笑わないで」

「すみません」

 美咲もつられて笑った。

「直人は?」

「僕は、席を早く確保したかったんだと思います」

「席?」

「高橋さんと花ちゃんの生活の中の、自分の席」

 直人はカップを見た。

「何か役に立てば、必要な人になれる。花ちゃんに好かれれば、家族に近づける。そういう焦りがあった」

「どうして焦るの」

「なくなるのが怖かったから」

 直人は顔を上げた。

「高橋さんは、花ちゃんが嫌だと言えば僕との関係を終わらせるだろうと思ってた。健一さんが反対しても、終わるかもしれない。僕には決められることが何もない。それが怖かった」

「だから『家族みたい』って」

「はい。自分の願望を先に言葉にしました」

 直人ははっきり言った。

「花ちゃんの気持ちより、自分が安心したかった」

 美咲は胸が痛んだ。

「でも、花が嫌って言ったらどうする?」

「待ちます」

「ずっと?」

「ずっとかはわかりません」

 直人は正直に答えた。

「僕も人間なので、何年でも何も求めず待てるとは言えない。でも、少なくとも花ちゃんの父親の場所を取ろうとはしません」

「健一がいるから?」

「それもある。でも、僕は僕だから」

 直人は言葉を探すように黙った。

「もし僕がこの先ずっと関わることになったとしても、『パパの代わり』じゃなくて、花ちゃんが僕を僕として必要としてくれたらいい」

 美咲は目頭が熱くなった。

「高橋さん」

「うん」

「別れたいですか」

 逃げられない質問だった。

 美咲は長く考えた。

「怖い」

「はい」

「今も、たぶんこの先も。直人が仕事で忙しくなったら、また昔のこと思い出すと思う。花が直人を好きになるほど、もし別れたらどうするんだって考えると思う」

「はい」

「でも、怖いから別れるって決めるのも、違う気がする」

 直人の指がわずかに動いた。

「続けたいです」

 美咲は言った。

「すぐに家族になろうとしないで。花にも約束しないで。何か決めるとき、先に完成形を作らないで」

「わかりました」

「私も、直人を健一と比べて判定するのをやめる。直人が傷つくこともあるって、ちゃんと考える」

 直人は頷いた。

「あと、仕事はやってください」

「はい?」

「大阪の案件。やりたいんでしょう」

「やりたいです」

「私のために諦められたら、それも嫌です」

「難しいですね」

「難しいです」

 二人は笑った。

 すべてが解決したわけではなかった。

 契約書のような約束を作ったわけでもない。

 ただ、初めて二人とも、自分が何を怖がっているのかを同じテーブルの上に置いた。

 一週間後、直人は花に会った。

 場所は美咲の家ではなく、近所の公園にした。

 花は直人を見ると少し照れたように美咲の後ろへ隠れた。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 直人はしゃがんだ。

「花ちゃん、この前はごめん」

「ようちえん?」

「そう。僕、大人なのに、花ちゃんがいるところで喧嘩みたいになった」

 花は頷いた。

「パパとけんかしない?」

「しないようにする」

「ぜったい?」

 直人は一瞬、美咲を見た。

 そして首を振った。

「絶対って言うと、守れないかもしれない。意見が違うことはあると思う。でも、花ちゃんを困らせる喧嘩はしないようにする」

 花は考えた。

「なおと、パパにならない?」

「ならないよ」

「じゃあ何?」

 直人は笑った。

「直人でいい?」

 花も少し笑った。

「いいよ」

「ありがとう」

 しばらくして、花は直人の手を引いて滑り台へ走った。

 美咲はベンチから二人を見た。

 以前なら、この光景を「新しい家族の予告」のように見ただろう。

 今は違った。

 今日はただ、花と直人がもう一度遊んでいる。

 それで十分だった。

 直人が滑り台の階段で花に急かされ、情けない顔で美咲を見る。

 美咲は笑った。

 航路は、最初に思い描いたものとは変わった。

 遠回りもした。引き返しかけた。

 それでも進む方向まで失ったわけではない。

 針路そのまま。

 ただし、誰か一人が舵を握るのではなく、何度でも確かめながら。

 公園からの帰り道、花は直人と美咲の間を歩いた。以前のように二人の手を無理に結ばせることはせず、気が向くとどちらかの手を取った。

 直人も美咲も、そのたびに握り返した。

 誰かの代わりになる必要はない。誰かを消して場所を空ける必要もない。関係には、それぞれ違う名前と距離があっていい。

 それを理解したからといって、これから揉めない保証はなかった。直人はまた仕事を抱えるかもしれない。美咲はまた過去を重ねるかもしれない。花の気持ちだって変わる。

 けれど、問題が起きないことを信頼と呼ぶのではないのだろう。問題が起きたとき、黙って逃げずに話し直せること。その方が、美咲にはずっと現実的な信頼に思えた。

 港へ向かう風が冷たかった。美咲はコートの襟を上げ、歩幅を少しだけゆるめた。二人が隣に並べるように。

 急がなくてもいい。三人はそれぞれの速度で歩けばいい。美咲はようやく、その遅さを不安ではなく選択として受け止められた。


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