第八章 嵐の予兆
冬が深くなる頃、美咲は直人との関係に少しずつ慣れ始めていた。
慣れる、という言葉を使うこと自体が怖かった。
けれど、直人から朝のメッセージが来ることも、花が「今度なおといつ来る?」と聞くことも、以前ほど胸をざわつかせなくなっていた。
その代わり、別の問題が見え始めた。
最初のきっかけは、健一からの電話だった。
『話しておきたいことがある』
平日の夜。花が寝たあとだった。
「何?」
『前に言った、付き合ってる人のこと。今度、花にちゃんと紹介したいと思ってる』
美咲は黙った。
「ちゃんとって?」
『真理子っていう。三十二。俺たち、結婚も考えてる』
胸の奥がざらついた。
相手が自分より若いと知った瞬間、二年前の傷が勝手に反応する。
「それ、今言う必要ある?」
『年齢? 聞かれるかと思って』
「聞いてない」
自分の声が尖っているのがわかった。
『美咲』
「花に紹介するのは、ちょっと待って」
『なんで』
「付き合ってる人が変わるたびに会わせるのは嫌だから」
『変わるたびって、俺そんなことしてないだろ』
「浮気した人に言われたくない」
言った瞬間、二人の間に昔の空気が戻った。
『……その話、今するか?』
「ごめん」
美咲は額を押さえた。
「でも、花は最近いろいろ考えてる。家族とか、パパとか。急に新しい人を入れるなら、時間をかけてほしい」
『それはわかってる。だから相談してる』
健一も声を落とした。
『俺だって勝手に会わせようとしてるわけじゃない』
その言葉に、美咲はいくらか冷静さを取り戻した。
「……そうだね」
『それに、そっちも誰かいるんだろ』
心臓が一度強く鳴った。
「花が言った?」
『なおとって人。よく遊ぶって』
美咲は目を閉じた。
花に口止めするつもりはなかった。むしろ、隠す方がおかしい。
それでも健一の口から直人の名前が出ると、領域を踏まれたように感じた。
『俺は、その人に会わせるなって言ってない』
「あなたに許可をもらうことじゃないから」
『俺の方もそうだろ』
言い返せなかった。
電話を切ったあと、美咲は長く座ったままだった。
自分が公平ではないことに気づかされる。
健一が新しい相手を花に会わせるのは怖い。けれど自分は直人をすでに何度も会わせている。
違う、と言いたくなる。
直人は安全だ。花を大切にしている。
けれど、それは自分がそう思っているだけだ。
健一も真理子という女性について同じことを思っているのかもしれない。
翌週の日曜日、スーパーで三人が健一と鉢合わせした。
美咲と直人と花が、夕食の材料を選んでいたときだった。
「パパ!」
花が先に見つけた。
健一の隣には女性がいた。
短い髪で、ベージュのコートを着ている。派手な印象はなく、驚いたようにこちらを見た。
「花」
健一が一瞬困った顔をした。
「偶然だな」
美咲は女性を見た。
真理子なのだろう。
「こんにちは」
女性の方から頭を下げた。
「初めまして。佐伯真理子です」
美咲も頭を下げる。
「高橋です」
直人は一歩後ろにいた。
健一が彼を見る。
「そっちが直人さん?」
「伊藤です」
直人が頭を下げた。
「いつも花がお世話になってるみたいで」
健一の言い方は礼儀正しかった。
だからこそ美咲は緊張した。
「いえ。僕の方こそ」
直人が答える。
「花、なおとと観覧車のったんだよ」
花が嬉しそうに報告した。
「そうか」
健一は笑ったが、目が直人から離れなかった。
「若いね」
その一言に、美咲の背中が硬くなった。
「健一」
「別に悪い意味じゃないよ」
健一は直人に向き直った。
「花、結構人懐っこいから。仲良くなるの早いんだ」
「はい」
「でも、子どもって大人が思うより覚えてるから」
空気が変わった。
「健一、やめて」
「父親として言ってるだけ」
直人は少し間を置いてから答えた。
「わかっています。僕も軽く考えないようにしています」
「ならいいけど」
健一はそう言い、花の頭を撫でた。
真理子が「じゃあ、またね」と花に優しく言う。
花は彼女をじっと見た。
「パパの好きなひと?」
全員が固まった。
健一が苦笑する。
「そうだよ」
「けっこんする?」
「まだ決まってない」
花は真理子と直人を交互に見た。
「じゃあ、みんな家族になる?」
誰もすぐ答えられなかった。
帰り道、花は妙に静かだった。
「どうしたの?」
美咲が聞く。
「べつに」
直人も何も言わなかった。
家の前で別れるとき、花はいつもの「またね」を言わず、美咲の後ろに隠れた。
「花ちゃん?」
直人が声をかける。
「……なおと、パパじゃないもん」
突然だった。
直人の表情が止まる。
「うん。そうだよ」
「だから、花のおうち来なくていい」
「花!」
美咲が思わず叱る。
花は泣きそうな顔で階段を駆け上がった。
「ごめんなさい」
美咲は直人に言った。
「いや」
直人は首を振った。
「たぶん、さっきのことで混乱してるんですよね」
「でも」
「大丈夫です」
その「大丈夫です」が、美咲には少し無理をしているように聞こえた。
部屋に入ると、花は押し入れの横で膝を抱えていた。
「どうしたの」
「パパ、なおとに怒ってた」
「怒ってないよ」
「怒ってた」
子どもは空気を正確に読む。
「パパ、なおときらい?」
「それはパパに聞かないとわからない」
「なおとと遊んだら、パパかなしい?」
美咲は息を飲んだ。
花の中では、二人の男性への好意が競争になっていた。
「そんなことないよ」
「ほんと?」
「花が直人と楽しく遊んでも、パパがパパじゃなくなることはない」
「真理子さんとパパがけっこんしたら、ママはママじゃなくなる?」
「ならない」
「なおととママがけっこんしたら、パパは?」
「パパはパパだよ」
何度同じことを言っても、花の不安は簡単には消えない。
「家族って、むずかしい」
花が泣きながら言った。
「……うん。難しいね」
美咲は抱きしめた。
その夜遅く、健一からもう一度電話があった。
『花、何か言ってた?』
「直人と遊んだらパパが悲しいのかって」
電話の向こうで、健一が息を吐いた。
『……俺のせいだな』
「そうだね」
『そこは否定しないんだ』
「今はしない」
少し沈黙があった。
『あの人に喧嘩売りたかったわけじゃない』
「じゃあ何」
『怖かったんだよ』
意外な言葉だった。
『花が、俺の知らないところであの人の話ばっかするようになって。観覧車乗ったとか、工作直してもらったとか。俺、自分が父親じゃなくなるみたいな気がした』
「ならないよ」
『頭ではわかってる。でも、俺は花と毎日暮らしてないだろ』
健一の声には、珍しく虚勢がなかった。
『俺が自分でこうしたんだけどな』
美咲は何も言えなかった。
健一が離婚の原因を作った。それは変わらない。けれど、その結果として娘の日常から離れた寂しさまで存在してはいけないわけではない。
「直人は、あなたの代わりになるつもりはないって言ってる」
『そうか』
「花にもそう言ってる」
『……悪かったって伝えといてくれる?』
「自分で言って。次に会ったとき」
『わかった』
電話を切る前、健一が言った。
『真理子のことも急がない。花が会いたいって言うまで、二人で出かける日に連れて行ったりしない』
「ありがとう」
美咲はそう答えた。
電話を切ってから、余計に問題が複雑になった気がした。
健一がただの嫌な元夫なら、拒絶すれば済む。直人が何でも受け止める完璧な恋人なら、そちらを選べば済む。
けれど現実の人間は、悪いことをした人にも愛情があり、優しい人にも欠点がある。
花は、その複雑な大人たちを全部好きでいようとしている。
美咲はそのことを忘れてはいけないと思った。
それから花は、直人に会うのを二度断った。
「今日はママと二人がいい」
美咲はその希望を尊重した。
直人も「わかった」と言った。
だが、美咲の中には別の不安が育った。
直人がこの状況に耐えられるのか。
子どもの気分に合わせて予定が変わる生活を、本当に望めるのか。
ちょうどその頃、直人の仕事も忙しくなった。
大阪の大規模改修プロジェクトにメンバーとして入る話が出たという。
「半年くらい、平日は帰り遅くなるかもしれません」
電話でそう聞いたとき、美咲は胸が沈んだ。
「断れないんですか」
口に出してから、自分でも驚いた。
「断れないわけじゃないです。でも、やりたい仕事なんです」
直人の声がわずかに硬くなった。
「ずっと関わりたかった規模の案件で」
「そう」
「高橋さん?」
「仕事なら仕方ないでしょう」
自分が何に怒っているのかわからなかった。
直人には仕事を選ぶ権利がある。恋人ができたから挑戦を諦めろとは言えない。
けれど、「半年忙しくなる」と聞いた瞬間、未来の中で自分と花が後回しにされたように感じた。
「相談してほしかった」
「まだ決めてないから、今相談してるんです」
直人の言葉は正しい。
それなのに美咲は素直に受け取れなかった。
「どうせやりたいんでしょう」
「やりたいです」
「じゃあ、私が嫌だって言ったらやめるの?」
沈黙。
その沈黙が答えに聞こえた。
「ほら」
「高橋さん、それはずるいです」
直人の声に初めて明確な苛立ちが混じった。
「何が」
「僕が仕事をやりたいって言ったら、家族を大事にできない人みたいに言う」
「家族って、誰のこと?」
言葉が先に出た。
電話の向こうが静かになった。
「……すみません」
直人が言った。
「今のは早かった」
「そういうところ」
美咲の胸に、これまで溜めていたものが噴き出した。
「直人はすぐ先へ行く。資格のことも、花のことも。自分の中で『こうなったらいい』って形を作って、そこに私たちを置こうとする」
「そんなつもりは」
「つもりじゃなくても」
「じゃあ、僕はいつまで他人なんですか」
直人の声が強くなった。
美咲は黙った。
「僕が何かしようとすると踏み込みすぎだって言う。引いたら引いたで、本気じゃないんじゃないかって顔をする」
「そんな顔してない」
「してます」
「わかったように言わないで」
「わからないから話してるんです!」
二人とも黙った。
直人が声を荒らげたのは初めてだった。
「……ごめんなさい」
先に謝ったのは直人だった。
「でも、僕だって怖いです」
声が低くなる。
「花ちゃんに『来なくていい』って言われたとき、結構きつかった。僕には何の権利もないから、会いたいとも言えない。高橋さんが終わりって言ったら、それで終わる」
美咲の胸が痛んだ。
「それは……」
「わかってます。親じゃないから当然です。でも僕が何も傷ついてないみたいに思わないでほしい」
美咲は言葉を失った。
直人はいつも受け止める側だと思っていた。
自分と花が傷つかないことばかり考えて、直人にも失う怖さがあることを考えていなかった。
その夜、二人は結論を出さなかった。
数日後、幼稚園で作品展があった。
花は最初、「ママだけ来て」と言っていた。
ところが前日の夜になって、「なおとも来てもいい」と言った。
「本当に?」
「うん。でもパパも来る」
健一も以前から予定を聞いていた。
美咲は迷った末、直人へ伝えた。
〈花が、来てもいいって言ってる。健一も来ます〉
〈僕が行って大丈夫?〉
〈私もわからない。でも花が言ったから〉
当日、幼稚園の小さな教室に、美咲、健一、直人の三人が並ぶことになった。
教室へ入る前、直人は廊下の端で健一に頭を下げた。
「この前は、すみませんでした」
「俺も言い方悪かった」
二人とも目を合わせたまま、ぎこちなく言った。
仲直りと呼べるほどではない。ただ、花の前で争わないという最低限の合意を作ろうとしているのはわかった。
美咲は安心した。
だからこそ、そのあと起きることへの警戒が緩んでいたのかもしれない。
花の作品は「海の町」だった。
紙の家がいくつもあり、青い色紙の海を船が行き来している。
「これ、ママのおうち」
花が指差す。
「これパパ。これなおと」
三つの家は離れていた。
けれど青い海でつながっていた。
担任の先生が近づいてきた。
「花ちゃん、今日は皆さん来てくださったのね」
先生は直人を見て、一瞬迷った。
「あの、お父さま……では」
「違います」
直人が答えた。
そこまではよかった。
「でも、家族みたいに大事に思ってます」
美咲は息を止めた。
健一の表情が変わる。
「家族みたいに?」
直人も、自分が言いすぎたと気づいたようだった。
「すみません。言い方が」
「花の父親は俺だけど」
「わかっています」
「健一、ここでやめて」
周囲には他の保護者もいる。
花が三人の顔を見ていた。
「けんかしないで!」
大きな声が教室に響いた。
花の目から涙が落ちた。
美咲の胸の中で、何かが切れた。
「もう帰ろう」
花の手を取り、教室を出た。
直人が追ってきた。
「高橋さん」
「今日は帰って」
「でも」
「お願い」
直人は立ち止まった。
家に帰るまで、花はほとんど話さなかった。
夜、眠った花の横顔を見ながら、美咲は自分を責めた。
何のために慎重にしてきたのだろう。
花を守るためだったはずなのに、大人たちの曖昧な関係の真ん中に立たせ、泣かせてしまった。
直人から何度かメッセージが来た。
〈今日は本当にごめんなさい〉
〈花ちゃんに謝りたいです〉
〈でも、今は行かない方がいいと思うので待ちます〉
美咲は返事ができなかった。
健一からも来た。
〈俺も悪かった。花に謝る〉
誰も悪人ではない。
だからこそ難しかった。
誰か一人を追い出せば解決する問題ではない。
美咲は窓の外を見た。
風が強く、雲が早く流れている。遠くの港の灯りが、時折雲の影に沈んだ。
嵐は外から来るのだと思っていた。
健一の一言。過去の記憶。誰かの裏切り。
けれど今、美咲にはわかった。
同じ船に乗ろうとする人たちが、それぞれ違う地図を持っているだけでも、海は荒れる。
そして自分は、直人に「少し時間がほしい」とメッセージを送った。
返信は短かった。
〈わかりました。待ちます〉
その文字を見ても、安心できなかった。
今度こそ、この関係を終わらせた方がいいのかもしれない。
そんな考えが、初めて現実味を持って美咲の中に浮かんだ。
終わらせれば、少なくともこれ以上花を混乱させずに済む。自分も直人の仕事に振り回されず、健一との境界だけを守っていればいい。二年前から作ってきた生活へ戻れる。
安全な岸は、すぐそこにあるように思えた。
けれど、その岸へ戻ることが本当に花のためなのか、それとも自分が怖さから逃げたいだけなのか、美咲にはもう区別がつかなかった。
答えの出ないまま、夜だけが深くなった。美咲はスマートフォンを裏返し、花の寝息を聞いた。
守ることと閉じ込めることは、似ている。慎重であることと、何も選ばないことも似ている。
その境目を間違えない自信が、今の美咲にはなかった。
だから、今は立ち止まるしかなかった。
寝室の暗がりで花が寝返りを打ち、小さな手が布団の外へ出た。美咲はその手を中へ戻し、しばらく枕元に座った。答えを急げば、また誰かの気持ちを自分の怖さで決めてしまう。今夜だけは、何も決めないことを決めた。




