第三部 外海へ 第七章 北野の灯り
直人と知り合ってから二か月が過ぎた。
会うのは二週間に一度ほどだった。花と三人で公園へ行く日もあれば、幼稚園の迎えまでの一時間だけ、美咲と直人が駅前の喫茶店で話す日もあった。
美咲は、その速度が自分には合っていると思った。
直人は「付き合ってください」とは言わなかった。
美咲も二人の関係に名前をつけなかった。
けれど、朝の通勤途中に見つけた景色を送り合い、仕事で嫌なことがあれば短く愚痴を言い、花が風邪を引けば直人が「大丈夫?」と聞く。
他人よりは近い。
恋人と呼ぶには、まだ怖い。
そんな曖昧な場所にいた。
その間に、美咲は通信講座へ申し込んだ。
教材が届いた夜、分厚いテキストを前にして少し後悔した。簿記三級を取ったのはもう十年以上前だ。勘定科目を見ても、覚えているものと曖昧なものが混じっている。
「これ、いつやるんだろう」
思わず呟くと、花が横から覗いた。
「いまやれば?」
「今は花の歯みがきの時間です」
「じゃあ、歯みがきしたら」
「お風呂」
「お風呂のあと」
「寝る準備」
花はしばらく考え、「ママ、いそがしいね」と言った。
「そうなの」
笑いながら、美咲は少し泣きそうになった。
結局、一日三十分だけ勉強することにした。花が絵本を読む横で問題集を開く日もあった。洗濯機が回っている二十分を使う日もあった。完璧な勉強時間を作るのを諦めると、不思議と続いた。
直人には、申し込んだあとで伝えた。
〈始めたんですね。おめでとうございます〉
〈まだ始めただけです〉
〈始めないと終わらないので〉
その返事は、前のような「こうすればいい」という押しつけではなかった。
美咲は素直に〈ありがとう〉と返した。
直人の方にも変化があった。
担当案件を一つ若手へ渡し、休日の連絡当番をチームで回す提案をしたという。最初は上司に「急にどうした」と笑われたらしい。
「僕が勝手に抱えてただけの仕事、結構ありました」
ある夕方、電話で直人が言った。
「人に任せると不安で」
「ちゃんとできるか?」
「いや、自分がいらなくなるんじゃないかって」
その答えに、美咲は目を見開いた。
「そんなこと思うんですか」
「思いますよ。必要とされるのが好きなんです、たぶん」
「面倒ですね」
「高橋さんも人のこと言えませんよ」
「私は何ですか」
「全部一人でできないと不安になる」
美咲は反論しようとして、やめた。
「……似た者同士って言いたいんですか」
「方向が逆なだけで、根っこは似てるかもしれません」
必要とされたい直人と、誰も必要としないで済むようになりたい美咲。
確かに、どちらも不安から動いているのかもしれない。
その発見はおかしくもあり、少し怖くもあった。
一度だけ、直人を家に上げたこともあった。
花が地域イベントで作った模型の屋根が取れ、「なおとなら直せる」と言い張ったからだ。
直人は玄関に入った瞬間から妙に緊張していた。
「そんなに固くならなくても」
「家に入るのは意味が違う気がして」
「屋根を直すだけです」
「はい」
工具も持たず、家にあったテープとのりだけで屋根をつける。
花が「なおと、へた」と笑うと、直人は「設計と工作は別なんです」と真顔で言い訳した。
帰るとき、直人は一度も勝手に冷蔵庫を開けず、勝手に物を動かさず、花にも「またね」とだけ言った。
美咲はその慎重さに安心しながら、同時に、自分の生活の中に彼の靴が置かれていた光景がしばらく目に残った。
境界線は消えるのではなく、少しずつ位置を変えていく。
そのことを、美咲はこの二か月で知り始めていた。
十二月の初め、直人からメッセージが来た。
〈今度、二人で夕食に行きませんか〉
美咲は画面を長く見た。
三人ではなく、二人。
これまでも花の迎えまでにコーヒーを飲んだことはある。けれど夜に二人きりで出かけるとなると意味が違う。
〈夜ですか〉
〈できれば。無理なら昼でも〉
すぐに逃げ道を用意するところが直人らしかった。
問題は花だった。
健一の面会日に合わせることも考えたが、それはなぜか嫌だった。元夫が娘を見ているあいだに新しい男性とデートする、という構図を自分が意識しすぎてしまう。
由紀に相談すると、「うちで預かるよ」と言われた。
「いつも頼ってばっかりになる」
「月一回預かったくらいで人生傾かないから」
「でも」
「じゃあ、地域の一時保育使えば?」
由紀はスマートフォンで情報を見せた。
「美咲、資格のときもそうだけど、制度使うのを『誰かに迷惑かける』のと同じに考えすぎじゃない?」
その言葉が刺さった。
美咲は一時保育とベビーシッターのサービスを自分で調べた。面談が必要なところ、当日依頼できるところ、保険の有無。最終的には、自治体の研修を受けたサポーターが自宅で見守る制度を利用することにした。
直人にその話をすると、「費用、半分出します」と言った。
「出さなくていいです」
「でも僕が誘ったから」
「花の預け先を選ぶのは私の責任です」
直人は一瞬黙った。
「わかりました」
前ならもう一度「でも」と言ったかもしれない。
それを飲み込んだのがわかった。
「ありがとう」
美咲は自然に言えた。
「何がですか」
「止まってくれて」
直人は少し照れたように笑った。
当日、美咲は仕事を定時で上がった。
花をサポーターの女性に託し、何度も連絡方法を確認する。
「ママ、デート?」
玄関で靴を履く美咲に、花が聞いた。
「……ごはん」
「デートじゃん」
サポーターが笑いをこらえている。
「早く寝ててね」
「なおとによろしく」
美咲は顔が熱くなるのを感じながら家を出た。
待ち合わせは北野坂の下だった。
直人は今度は十五分前に来ていた。
「早いですね」
「前科があるので」
「そこまでしなくても」
「今日は仕事、先輩に引き継いできました」
「無理させてません?」
「お互いさまって言われました。僕が今まで引き受けすぎてただけだったみたいです」
直人は少し誇らしそうだった。
北野の坂を上る。
冬の空気は冷たく、ガス灯のような柔らかな照明が石畳を照らしていた。洋館の窓にクリスマスの飾りが見える。
「神戸に住んでるのに、この辺ちゃんと歩くの久しぶりです」
美咲が言う。
「近いほど来ないですよね」
「観光客の方が詳しいかも」
直人が予約した店は、古い洋館を改装した小さなレストランだった。
豪華すぎる店ではない。それでも、美咲が普段花と入る店よりはずっと静かで、大人の場所に思えた。
席に着くと、美咲は無意識にスマートフォンを確認した。
「花ちゃん?」
「はい。まだ大丈夫そう」
「気になりますよね」
「気にしない方が無理です」
「僕、今日は『せっかくなんだから忘れて楽しんで』って言わないようにします」
美咲は笑った。
「言いそうだったんですか」
「昔の僕なら」
料理が運ばれてきた。
温かいスープを口にすると、体の力が抜けた。
「こういう店、久しぶりです」
「緊張します?」
「少し。値段も」
直人がメニューを見た。
「誘った僕が払うつもりでしたけど」
「今日は半分払います」
「でも」
直人は言いかけて、止まった。
「……じゃあ、そうしましょう」
「学習してますね」
「褒めてください」
「自分から言わないでください」
二人で笑った。
食事の途中、美咲は健一との結婚生活について初めて少し詳しく話した。
浮気のことだけではない。
その前から、会話が減っていたこと。花が生まれてから二人とも余裕を失い、必要事項だけを話す日が増えたこと。健一が仕事で遅くなり、美咲は「手伝って」と言えず、勝手に不満を溜めたこと。
「私も、何も悪くなかったとは思ってないです」
美咲はナイフを置いた。
「浮気したことは健一の責任。でも、その前に夫婦として話さなくなってたことまで、全部相手だけのせいにはできない」
「それ、区別できるのすごいですね」
「二年かかったから」
「それでも」
直人はグラスの水を飲んだ。
「僕、前の恋人と別れたとき、しばらく全部相手のせいにしてました」
美咲は彼を見る。
「仕事頑張って何が悪いんだって。将来のために働いてるのに、理解してくれない方が悪いって」
「今は違う?」
「違うと思いたいです」
直人は口の端で笑った。
「でも、たまに同じことしてる。ハーバーランドの日みたいに」
美咲は頷いた。
「僕の父親も、仕事ばっかりだったんです」
初めて聞く話だった。
「建設会社で現場監督してて。朝早くて夜遅い。休みの日も電話。子どもの頃、運動会に来るって言って来なかったことが何回もありました」
「それなら、嫌じゃなかったんですか」
「嫌でした」
「なのに同じことを?」
「そうなんですよ」
直人は自嘲した。
「父親みたいにはならないって思ってたのに、仕事を始めたら、忙しいことが格好いいみたいな世界に入って。頼まれると嬉しいし、自分がいないと回らないって思うと安心する」
「安心?」
「必要とされてる感じがするから」
美咲は、資格の話を手伝おうとした直人の言葉を思い出した。
「役に立つことで距離を縮める」
「それです」
直人は小さく頷いた。
「家でも父親はそうだったのかもしれない。お金を稼ぐことが家族を愛することだと思ってた。でも母親は、別のことでずっと怒ってた」
「何で?」
「いてほしいときにいない、って」
直人は窓の外を見た。
「僕、母親の愚痴を聞きながら育ったから、結婚ってちょっと怖かったんです。結局、誰かと暮らしたら相手を失望させるんじゃないかって」
美咲は驚いた。
直人は最初から、安定した家庭を求める人に見えていた。
「じゃあ、どうして私と」
「高橋さんと花ちゃんを見てると、家族って完成品じゃないんだなと思ったから」
「完成品?」
「みんな最初から上手にできるわけじゃない。喧嘩したり、間違えたり、それでも話し直すものなのかなって」
美咲はくすりと笑った。
「私たち、そんな立派じゃないですよ」
「立派だからじゃないです」
直人は真剣な顔になった。
「高橋さん、花ちゃんに間違ったら謝るでしょ。ハーバーランドで怒鳴ったあともそうだった。僕、あれ見て、こういうのならできるかもしれないって思った」
「何が?」
「誰かと一緒にいること」
その言葉に、美咲は息を詰めた。
ちょうどそのとき、直人の鞄の中でスマートフォンが震えた。
彼は見ないふりをした。
もう一度震えた。
「出なくていいんですか」
「今日は大丈夫です」
三回目。
美咲は眉を寄せた。
「何かあったら困るんじゃないですか」
「でも、今日は」
「出てください」
直人は迷い、画面を確認した。
顔つきが変わった。
「現場です」
「どうぞ」
「すみません」
席を外し、廊下で電話に出る。
美咲は一人になったテーブルで、冷めかけた料理を見た。
胸の中に、古い嫌な感覚が戻る。
結局、仕事が一番なのだ。
そう決めつけかけて、止まった。
直人は電話を無視しようとした。
美咲が出ろと言った。
しかも、現場から三回も連絡が来ている。安全に関わることかもしれない。
過去の記憶は、目の前の事実を自分に都合よく並べ替える。
十分ほどで直人が戻った。
「すみません」
「何かありました?」
「天井裏で漏水が見つかって。明日の朝一で確認します。今夜は設備止めてもらうことになりました」
「それは出てよかったですね」
「でも、せっかくの」
「そういう仕事なんでしょう?」
美咲は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「仕事を全部捨てて私を優先してほしいわけじゃないです」
直人が黙って聞く。
「ただ、何も言わずに約束を破られたり、待ってる側が当然みたいに扱われるのが嫌なんです」
「はい」
「必要なときに仕事をするのと、何でも自分で抱えるのは違うでしょう」
「……はい」
「だから、今日の電話は怒ってません」
直人の表情がゆるんだ。
「高橋さん、時々僕の上司みたいですね」
「嫌ならやめます」
「いえ。会社の上司より的確です」
「それは会社が心配です」
二人は笑った。
食事を終え、店を出た。
坂の上から神戸の街の灯りが見えた。冬の空気の中で、遠くの光がくっきりしている。
「きれいですね」
直人が言う。
「うん」
美咲は手袋をしていない手をコートのポケットに入れた。
しばらく歩いたところで、直人が立ち止まった。
「高橋さん」
「はい」
「僕たち、付き合ってるって言っていいんでしょうか」
あまりにも直人らしい聞き方で、美咲は笑いそうになった。
「私に聞くんですか」
「二人で決めることかなと思って」
美咲は夜景を見た。
怖くないと言えば嘘になる。
好きになれば、失う可能性が生まれる。
花も巻き込む。
健一との関係も、これまで以上に整理しなければならない。
それでも、今日ここまで来たのは自分だ。
「……私は、そう思ってます」
直人の目が少し大きくなった。
「付き合ってるって?」
「何度も言わせないでください」
「すみません」
直人は笑った。
「じゃあ、僕もそう思います」
「そこは最初からでしょう」
「はい」
束の間、沈黙が落ちた。
直人が手を出しかけ、止めた。
「手、つないでもいいですか」
美咲はその手を見た。
「いちいち聞くんですね」
「今のところ、聞いた方がいい気がして」
美咲は自分から手を重ねた。
直人の手は思ったより冷たかった。
坂を下りながら、二人は何も話さなかった。
言葉がなくても、不安ではなかった。
駅の手前で別れるとき、直人は少し迷ったあと、美咲の額に短くキスをした。
「そこ?」
美咲が思わず言うと、直人は赤くなった。
「すみません。わからなくなって」
「謝らなくていいです」
二人で笑った。
家に帰ると、花はまだ起きていた。
「ママ、おそい!」
「ごめん。寝てると思った」
「デートどうだった?」
サポーターの女性が笑って帰っていく。
「楽しかったよ」
美咲は初めて、花の前でそう答えた。
「なおととけっこんする?」
「話が早い」
「しないの?」
「今はしない」
「今は?」
子どもは言葉尻を逃さない。
美咲は花を抱き上げた。
「今は、お友だちよりちょっと大事な人になったところ」
「なりかけ終わった?」
以前の会話を覚えていた。
「たぶんね」
花は満足そうに笑った。
寝室へ連れていき、布団をかける。
「ママ、うれしい?」
美咲は言葉を探した。
「うん。うれしい」
声にしてみると、胸の奥が温かくなった。
うれしいものを、怖いからという理由だけで否定しなくてもいい。
窓の外には、遠く港の灯りが見えた。
以前より近くなったわけではない。
けれど美咲には、その光との距離が少し縮まったように感じられた。
距離が縮まれば、見えなかったものも見えてくる。相手の癖も、自分の怖さも、関係の不格好さも。
それでも今は、遠くから眺めるだけだった頃より、この場所に立っている自分の方を少し好きになれた。それで十分だった。今の美咲には、それが大きな変化だった。
そして、その変化を急いで完成させる必要もなかった。




