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港の灯りはあなたを呼んでいる  作者: 久遠 睦


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第六章 初めての航海

通信講座の資料が届いた日の夜、美咲は食卓いっぱいにパンフレットを広げた。

 受講期間、教材、試験日、料金。知らない言葉に付箋を貼る。

「ママ、おべんきょう?」

 花が向かいの椅子から覗き込んだ。

「まだ、お勉強するか考えてるところ」

「なんのおべんきょう?」

「お金を数えるお勉強」

「ママ、いつも数えてるよ」

 美咲は思わず笑った。

「もっと上手に数えるの」

 花はよくわからないまま頷き、絵本へ戻った。

 市の支援制度については、自分で窓口に電話をした。条件を聞き、必要書類をメモした。対象になる可能性があるという。

 電話を切ったあと、美咲はしばらく嬉しかった。

 直人にやってもらわなくても調べられた、という気持ちが半分。そもそも制度を使っていいのだとわかった安堵が半分だった。

 直人には、翌日の昼に報告した。

〈制度、対象になりそうです〉

 返信はすぐではなかった。

 二時間後。

〈よかった。自分で調べたんですね〉

〈はい〉

〈さすがです、と言うとまた余計かな〉

〈それくらいなら大丈夫です〉

 文字だけのやり取りなのに、美咲は笑った。

 その週末、直人から「今度、三人でハーバーランドへ行きませんか」と誘われた。

〈花ちゃん、観覧車好きですか〉

 美咲が花に聞くと、答えは即決だった。

「行く!」

 予定は日曜日の十一時。

 美咲は前日の夜から弁当を作ろうか迷い、結局やめた。毎回何かを完璧に準備しようとする自分を少し休ませたかった。

 当日の朝、直人から八時にメッセージが来た。

〈すみません。会社から連絡があって、一度だけ現場に寄らないといけなくなりました。十一時には間に合わせます〉

 美咲は画面を見た。

 胸の奥に小さな不安が生まれる。

〈大丈夫ですか〉

〈絶対間に合わせます〉

 その「絶対」が気になった。

 約束の十分前、美咲と花はハーバーランドに着いた。

 港には観光客が多く、海風に混じって甘いクレープの匂いが流れてくる。

「なおとどこ?」

「もうすぐ来るよ」

 十一時になった。

 直人はいない。

 十一時五分。

 メッセージが来た。

〈すみません、あと十五分くらいです〉

 美咲の胸が冷えた。

「なおと、おそいね」

「仕事だって」

「きょう、おしごとないって言った?」

「言ってないよ」

 花はベンチに座り、足をぶらぶらさせた。

 十一時二十五分。

 直人が走ってきた。

「ごめんなさい!」

 息を切らし、額に汗を浮かべている。

「本当にすみません。打ち合わせが長引いて」

「二十五分ですね」

 美咲の声は自分でも驚くほど冷たかった。

「はい」

 直人は言い訳をやめた。

 花が直人を見上げた。

「なおと、きょう来ないかと思った」

 その一言が一番効いたようだった。

 直人はしゃがんだ。

「ごめん。待たせた」

「おしごと?」

「うん。でも、十一時に来るって約束したのは僕だから。仕事のせいにしちゃ駄目だね」

 花はじっと考えてから、「つぎは早く来て」と言った。

「はい」

 直人が真面目に頷いた。

 美咲の怒りはまだ消えなかった。

 なぜ二十五分の遅刻にここまで反応するのか、自分でもわかっていた。

 健一の「あと少しで帰る」というメッセージを信じて夕食を温め直した夜。結局午前近くになって帰ってきたこと。浮気が発覚してからは、その遅れ一つ一つが疑いに変わった。

 直人は健一ではない。

 頭ではわかっている。

 それでも体は、過去より先に反応する。

「高橋さん」

 直人が小声で言った。

「本当に、ごめんなさい」

「今日は花が楽しみにしてたから」

「はい」

「私に謝るより、次どうするか考えてください」

 言い方が厳しいのはわかっていた。

「わかりました」

 直人はそれ以上言わなかった。

 三人はまずメリケンパークへ歩いた。

 花はBE KOBEのモニュメントを見つけて駆け出し、写真を撮ってと騒いだ。

「三人で撮る?」

 直人が言った。

 美咲は一瞬迷った。

「スタッフの人にお願いしよう」

 花が勝手に近くの案内係へ声をかけた。

「しゃしん、おねがいします!」

 断る間もなく、三人で並ぶことになった。

 花が真ん中。美咲と直人が左右。

「もう少し寄ってください」

 言われ、美咲は半歩だけ直人へ近づいた。

 肩は触れない。

 シャッターが切られた。

 写真を見ると、不思議な感じがした。

 三人とも笑っている。

 家族写真のようにも見えるし、たまたま一緒に撮った三人にも見える。

 美咲はすぐ画面を閉じた。

 昼食はフードコートにした。

 直人は「遅刻したから僕が全部」と言いかけ、美咲の顔を見て言葉を変えた。

「……各自で買いましょうか」

「そうしてください」

 花が笑う。

「なおと、ママにおこられてる」

「そうなんです」

「反省してください」

「しています」

 少しずつ空気が戻った。

 食後、花が海辺の広場を走り回った。

 直人は追いかけようとして、一度美咲を見る。

「行っていいですか」

「私に許可取らなくていいですよ」

「今日は何をしても間違えそうで」

 美咲は吹き出した。

「それはそれで面倒です」

「難しい」

 直人も笑った。

 花と直人が走っていく。

 少しして、直人は本気で息を切らして戻ってきた。

「六歳、速いですね」

「普段運動してないんですか」

「現場で階段上るから大丈夫だと思ってました」

「別の体力なんでしょうね」

 美咲はペットボトルを渡した。

「ありがとうございます」

 直人は受け取り、一口飲んでから言った。

「朝のこと、言い訳じゃなく説明してもいいですか」

 美咲は花を目で追いながら頷いた。

「担当してる改修現場で、業者さんから納まりの確認が来たんです。僕じゃなくても対応できた。でも、自分の図面だから自分が行った方が早いと思って」

「抱え込んだ」

「はい」

「前に言ってた通り」

「はい」

 直人は海を見た。

「途中で先輩に電話して代わってもらえばよかった。でも、十一時にも間に合わせられると思った。両方取ろうとして、結局遅れました」

「今までもそうだったんですか」

「たぶん。仕事も、人との約束も、全部自分が頑張れば守れると思ってた」

「守れてないですよね」

「守れてないです」

 美咲はしばらく黙った。

「私、遅刻そのものより、『絶対間に合わせる』って言われたのが嫌だった」

 直人がこちらを見る。

「無理かもしれないなら、最初からそう言ってほしい。花も待つから」

「わかりました」

「私は……約束が変わることに、たぶん人より敏感です」

 そこまで言うのに勇気が要った。

「元夫のこと?」

 直人は慎重に聞いた。

「少し」

 美咲は頷いた。

「でも、あなたはあなたなので。全部そこに重ねたくない」

 自分で言いながら、まだ言葉にならない何かが胸の奥で芽吹くのを感じる。過去と現在を分けるのは、美咲自身の仕事でもある。

「僕も、重ねられないように完璧になろうとするんじゃなくて、変わったらちゃんと伝えるようにします」

 直人は言った。

「完璧は無理なんで」

「そこは自信あるんですね」

「今日証明しました」

 美咲は笑った。

 昼食を終えて店を出た直後、ほんの数十秒、花の姿が見えなくなった。

「花?」

 さっきまで美咲の横にいた。

 人の流れが途切れ、そこにいないことを理解した瞬間、全身から血の気が引いた。

「花!」

 声が裏返った。

 直人も顔色を変えた。

「僕、外見てきます」

「待って、別れないで」

 美咲は直人の腕をつかんだ。

 自分でも驚くほど強く。

「店の中かもしれない。まずここから見える範囲を」

「あ、はい」

 直人はすぐ従った。

 呼吸が浅くなる。

 ほんの十秒が長い。

 美咲の頭の中に、あり得る最悪のことが次々浮かんだ。階段。道路。知らない人。海。

「ママ?」

 背後から声がした。

 振り向くと、花が雑貨店の入口に立っていた。手に小さな紙を持っている。

「花!」

 美咲は駆け寄り、両肩をつかんだ。

「どこ行ってたの!」

 声が大きくなった。

 花の顔がこわばる。

「風船……もらったの」

 紙は風船を配っている店の引換券だった。数歩先のスタッフについて行っただけらしい。

「勝手に行っちゃ駄目って言ってるでしょ!」

 花の目に涙が溜まった。

「ごめんなさい……」

 怒鳴りたいのではない。無事だった安堵が、怒りの形で噴き出していた。

 直人が隣に来た。

 何か言おうとして、やめた。

 美咲は花を抱きしめた。

「ごめん。ママ、怖かったの」

「花も、ごめんなさい」

「行きたいところがあったら、言って。絶対一人で行かないで」

「うん」

 花は美咲の首に腕を回した。

 しばらくして落ち着くと、直人が自動販売機で水を買ってきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 美咲は受け取った。

「さっき、外を見に行こうとしてすみません」

「それは別に」

「いや。こういうとき僕、すぐ『自分が何かしなきゃ』って動くんだなと思って」

 美咲はペットボトルの蓋を開けた。

「私も冷静じゃなかったです」

「でも、高橋さんが止めてくれなかったら、僕が別方向に行って、余計ややこしくしてたかもしれない」

 直人は少し離れたところで風船を受け取る花を見た。

「親って、毎日こういう怖さがあるんですね」

「毎日ではないです」

「でも、可能性は毎日ある」

 美咲は返事をしなかった。

「僕、子どもと遊ぶのは好きです。でも、責任を持つっていうのは別ですね」

 直人は自分に言い聞かせるように言った。

「さっき、本当に怖かった」

「私もです」

「花ちゃんが見つかったから言えるけど……僕、自分が思ってたより何もわかってない」

 美咲は直人を見た。

 その顔には、これまでの穏やかな余裕がなかった。

 なぜか、それが大切なことに思えた。

 花を含む関係は、優しい言葉や休日の遊びだけではない。具合が悪くなることも、泣くことも、見失いそうになることもある。

 その現実に触れたとき、直人が「大丈夫です」と格好をつけなかったことを、美咲は覚えておこうと思った。

 花が赤い風船を持って戻ってきた。

「ちゃんと言ってから行った?」

 美咲が聞く。

「お店の人に?」

「ママに」

「こんどは言う」

「約束」

 花は小指を出した。

 美咲が指を絡める。直人も花に促され、もう一本の小指を出した。

「なおとも」

「僕も?」

「勝手にどっか行かない」

 直人が苦笑する。

「それは今日の僕にも必要な約束だね」

 三人の小指が不格好に重なった。

 午後、三人はモザイク大観覧車へ向かった。

 花は列に並ぶ間から興奮していた。

「いちばん上まで行く?」

「行くよ」

「おちない?」

「たぶん」

 直人が答える。

「たぶんって言わないで」

 美咲が言う。

「さっき『絶対』禁止されたので」

「使い分けてください」

 三人で笑った。

 ゴンドラがゆっくり上昇する。

 港の倉庫、道路、船が小さくなっていく。遠くに六甲の山並みが見える。

「わあ!」

 花は窓に張り付いた。

「ママ、見て! おうちちっちゃい!」

「ほんとだね」

 直人は反対側の窓から街を見ていた。

 仕事で建物を見ているときとは違い、今日は何も説明しなかった。

「解説しないんですか」

 美咲が聞く。

「今日は黙って見ます」

「無理してません?」

「ちょっと」

 ゴンドラが頂点に近づいた。

 花が突然、美咲と直人の手を一つずつ取った。

「三人でつなぐ」

 美咲の右手が、花を通して直人とつながる。

 直接触れてはいない。それでも胸が騒いだ。

「なおと」

「なに?」

「パパになる?」

 空気が止まった。

 美咲は花の手を強く握りそうになった。

 直人はすぐ答えなかった。

「花ちゃんには、パパいるよね」

「いるよ」

「じゃあ僕は、パパにはならないよ」

 美咲は直人を見た。

 花は不思議そうだった。

「じゃあ、何になる?」

 直人は困ったように笑った。

「それは、僕もまだわからない」

「ママも言ってた」

「同じだ」

 花は納得したのかしていないのか、また窓の外へ顔を向けた。

 直人は小声で美咲に言った。

「今のでよかったですか」

「私に聞かないで」

「でも」

「……よかったと思います」

 美咲は答えた。

 誰かが健一の代わりになることを望んでいるわけではない。

 花の父親は健一だ。

 その事実を消さずに、新しい人との関係を作ることはできるのだろうか。

 観覧車を降りたあと、花は「もう一回」と言ったが、美咲と直人は同時に「一回で十分」と答えた。

「二人、おんなじ!」

 花が笑う。

 夕方になり、港の灯りが一つずつ点き始めた。

 三人はベンチに座り、ソフトクリームを食べた。

「今日、楽しかったですか」

 直人が花に聞く。

「うん。なおと遅かったけど」

「それは一生言われそうだな」

「次遅れなかったら、忘れてくれるかも」

 美咲が言う。

「頑張ります」

 直人は花ではなく、美咲を見て言った。

 帰り際、駅の改札前で花が直人へ手を振った。

「またね!」

 直人は一瞬だけ迷ったあと、「またね」と返した。

 電車に乗ると、花はすぐ眠ってしまった。

 美咲の肩にもたれ、口を少し開けている。

 スマートフォンには、今日撮った写真が何枚もあった。

 海を指差す花。走る直人。三人で撮った写真。

 美咲は最後の一枚を長く見た。

 そこにいる自分は、いつもより柔らかく見えた。

 母親という役割を忘れたわけではない。忘れられるわけでもない。

 それでも今日は、誰かと一緒に花を見守る時間があった。

 それがこんなに楽なのだということを、美咲は忘れていた。

 同時に、楽であることが怖かった。

 頼れば、いなくなったときに困る。

 慣れれば、失ったときに痛い。

 でも、航海に出ない船は嵐に遭わない代わりに、どこにも行かない。

 そんな言葉を思い浮かべ、美咲は自分で苦笑した。

 ずいぶん影響されている。

 窓の外を、夜の神戸が流れていった。

 美咲は眠る花の頭を撫でた。

 今日一日だけなら、楽しかったと言っていい。

 未来のことまで決めなくていい。

 家に着いて花を寝かせると、直人から短いメッセージが来た。

〈今日は遅れて本当にすみません。でも、楽しかったです〉

 美咲はしばらく迷ってから返した。

〈私も楽しかったです。遅刻は次で判断します〉

〈猶予をもらえた〉

〈あと、謝りすぎです〉

 しばらく返事がなかった。

〈それも癖かもしれません。謝れば関係を壊さずに済むと思ってるのかも〉

 美咲はその文章を読み、今日の直人を思い出した。

 謝るだけでは足りない。けれど、謝れること自体が無意味なわけでもない。

〈次に同じことをしない工夫をしてください〉

〈先輩に担当を一つ渡しました。もうさっき連絡しました〉

 行動が早すぎて、美咲は笑った。

〈極端ですね〉

〈加減を覚えます〉

 そのやり取りを終えたあと、美咲は今日撮った三人の写真をもう一度開いた。

 今度はすぐ閉じなかった。

 まずは、その一日が楽しかったことを自分に許した。

 楽しかった日を、未来の保証に変えなくていい。失うかもしれないからと、今日までなかったことにしなくてもいい。

 その考え方は、美咲にとってまだ慣れないものだった。けれど窓の向こうの港を見ながら、少しずつ覚えていける気がした。焦らずに、一日ずつ。

 テーブルには、花が持ち帰った観覧車の半券が置きっぱなしになっていた。美咲は捨てかけて、引き出しへ入れた。記念品を残すことに深い意味はない。ただ、楽しかった一日を楽しかったまま置いておく練習くらいはしてもいいと思った。



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