第五章 水深を測る
直人からの誘いに返事をするまで、美咲は四日かかった。
その四日間、何度も「断ろう」と思った。
理由はいくらでもあった。花を知らない大人に近づけすぎたくない。自分には恋愛をする余裕がない。相手は六歳も年下だ。そもそも直人が何を考えているのかわからない。
けれど、断る文章を打つたび、最後の送信だけができなかった。
「行けばいいじゃん」
昼休み、由紀はあっさり言った。
「何かあったら帰ればいいし」
「何かって」
「嫌だったら。合わなかったら。花が疲れたら」
「そんな簡単かな」
「美咲は全部、始める前に最終回まで考えすぎ」
美咲は眉を寄せた。
「子どもいるんだから慎重になるでしょ」
「慎重なのはいいよ。でも、お茶一回で再婚するわけじゃないんだから」
由紀はストローでアイスコーヒーを混ぜた。
「水深測りながら進めばいいじゃん」
「何それ」
「海の話ばっかするから、なんとなく」
美咲は笑った。
その日の夜、直人へ〈今度の日曜日なら〉と送った。
待ち合わせは旧居留地のカフェになった。
美咲が店を選んだ。花を連れて入りやすく、子ども用のメニューがあり、席の間隔が広いところ。直人は「任せます」と言った。
日曜日、美咲は鏡の前で三度服を替えた。
「ママ、おそい」
花が玄関で靴を履きながら言う。
「わかってる」
「デート?」
美咲は振り向いた。
「どこでそんな言葉覚えたの」
「テレビ」
「今日は三人でお茶するだけ」
「それ、デートじゃない?」
「違います」
言い切ったものの、自信はなかった。
カフェに着くと、直人はすでに来ていた。
立ち上がって手を振り、花に「こんにちは」と声をかける。
「なおと、きょうはおしごとない?」
「今日はない。スマホも静かにしてもらう」
直人は画面を見せ、電源を切った。
「そこまでしなくても」
美咲が言う。
「自分への罰です」
「誰も罰しろとは言ってません」
花が笑った。
三人でケーキを選んだ。
花は苺のショートケーキ、美咲はチーズケーキ、直人はモンブラン。
「甘いの好きなんですね」
「かなり」
「おとななのに?」
花が聞く。
「大人になると甘いもの食べちゃ駄目なの?」
「いいよ」
「よかった」
会話は思ったより穏やかに進んだ。
直人は花の話を奪わなかった。質問はするが、答えを誘導しない。花が急に窓の外の犬へ興味を移せば、一緒に犬を見た。
ただ、ときどき困っているのもわかった。
花が「このケーキ一口あげる」とフォークを差し出したとき、直人は美咲を見た。
「食べていいですか?」
「私に聞かれても」
「アレルギーとか、そういうの」
「大丈夫です」
直人は安心して口を開けた。
「おいしい?」
「ものすごく」
「うそ」
「なんで」
「花がたべたとき、ふつうだったもん」
直人は返事に詰まり、美咲は笑った。
花が塗り絵に夢中になった頃、直人が声を落とした。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
「結構、迷いました?」
「……はい」
正直に答える。
「ですよね」
直人は傷ついたようには見えなかった。
「僕でも迷うと思います。立場が逆だったら」
美咲はカップの縁を指でなぞった。
「伊藤さんは、どういうつもりなんですか」
聞いてから、あまりにも直接的だったと思った。
直人は少し目を見開いた。
「どういう、というと」
「私とこうやって会うことです」
花には聞こえないよう声を落とす。
「ただ友達になりたいのか。それとも……」
「好意はあります」
直人は逃げなかった。
美咲の胸がどくりと鳴った。
「まだ高橋さんのこと、ほとんど知らないです。でも、もっと知りたいと思ってます」
直人はそこで言葉を切った。
「だから、今すぐ何か答えがほしいわけじゃないです」
美咲は視線を落とした。
「私、三十五です」
「はい」
「離婚してます」
「はい」
「子どももいます」
「目の前にいますね」
「冗談じゃなくて」
声が尖った。
直人の表情が引き締まる。
「すみません」
「私は、伊藤さんみたいに身軽じゃないです。急に夜ごはん行こうって言われても行けない。子どもが熱出したら予定は全部変わる。元夫とも連絡を取ります。花には父親がいるから」
「はい」
「それに、私は……」
何を言おうとしているのだろう。
美咲は自分でもわからなくなった。
若くない。余裕がない。傷がある。面倒だ。価値が低い。
口にしようとした言葉は、全部、自分自身を値踏みするものだった。
「高橋さん」
直人が静かに呼んだ。
「僕が知らない大変さがあるのはわかります。いや、全部はわからないです」
彼は一度言い直した。
「でも、それは欠点の一覧じゃないですよね」
美咲は顔を上げた。
「離婚してることも、花ちゃんがいることも、高橋さんの人生の一部だと思います。でも、それで人としての値段が下がるみたいに言われると……僕は、ちょっと違うと思う」
「値段なんて言ってません」
「言ってないです。でも、そう聞こえました」
美咲は黙った。
直人の言葉は優しかったが、完全に心地よいわけではなかった。
見たくないところを指摘された感じがした。
「僕も身軽じゃないですよ」
直人は続けた。
「仕事を優先しすぎて人を傷つけたことがある。今も直ってないところがある。家族を持つってどういうことか、正直わからないです」
「それなら、どうして」
「わからないから、知りたいんです」
直人は花の方を見た。
花は紫色のクレヨンで、紙いっぱいに何かを描いている。
「花ちゃんと会うのも、かわいい子どもと遊べて楽しい、だけじゃ済まないと思ってます。僕が中途半端に関わって、いなくなる方がよくない」
美咲は驚いた。
「そこまで考えてるんですか」
「考えすぎかもしれません」
「私たち、まだ二回お茶しただけですよ」
「だから、今は急がない方がいいってことです」
直人は苦笑した。
「自分で誘っておいて変ですけど」
美咲の肩から少し力が抜けた。
そのとき、花が絵を見せた。
「できた!」
三人が海の上に立っている絵だった。
左に美咲、真ん中に花、右に直人らしき人物。全員の足元には大きな青い線がある。
「これは?」
直人が聞く。
「うみ。みんな落ちないの」
「どうして?」
「おふねだから」
人物だと思ったものは、船の上に乗っていたらしい。
「僕も乗っていいの?」
「いいよ」
花は簡単に答えた。
美咲の胸に、喜びとは違う緊張が走った。
子どもは簡単に受け入れる。
だから、大人が慎重でなければならない。
店を出たあと、三人は旧居留地を少し歩いた。
直人は建物を説明しようとして、途中でやめた。
「今日は仕事みたいな話やめます」
「別にいいですよ」
「僕、好きなこと話し始めると止まらないので」
「それは知ってます」
「もう知られてる」
花が石畳の線を踏まないように跳びながら進む。
美咲と直人は少し後ろを歩いた。
「資格のこと、その後どうですか」
直人が聞いた。
「まだ何も」
「そうですか」
それ以上言わなかった。
前回、美咲に「簡単に言いすぎた」と指摘されたことを覚えているらしい。
「調べようとは思ってるんですけど」
美咲の方から続けた。
「教材費だけじゃなくて、試験日とか、勉強時間とか」
「うん」
「でも、調べるだけで疲れて」
「そういうの、一覧にすると少し楽かもしれませんね」
直人は言った。
「一覧?」
「費用、日程、必要時間、使える制度。条件が多いとき、僕は表にします」
「仕事みたい」
「仕事みたいです」
直人は笑った。
「もしよかったら、調べるの手伝いますよ」
美咲の足が止まった。
「大丈夫です」
反射的に答えた。
直人も足を止める。
「あ、すみません」
「自分のことなので」
「はい」
空気が少し冷えた。
美咲はわかっていた。直人は善意で言っただけだ。
それでも胸の中に、「助けてもらわなければできない人と思われた」という反発が湧いた。
「高橋さん」
直人が言う。
「僕、また答えを先回りしました」
「……そうかもしれません」
「ごめんなさい」
美咲は何も言わなかった。
駅で別れたあと、直人からメッセージが来た。
〈今日はありがとうございました。資格の件、勝手に踏み込みすぎました。すみません〉
美咲は電車の中で何度も文章を読み返した。
自分は怒りすぎただろうか。
誰かが手を貸そうとしただけなのに、棘を立てる必要があったのか。
けれど、「大丈夫です」と反射的に言ったときの息苦しさも本物だった。
夜、花を寝かせたあと、美咲は市のホームページを開いた。
ひとり親家庭向けの就業支援。資格取得に関する給付。講座の対象条件。
文章が長く、何度読んでも頭に入らない。
美咲は画面を閉じた。
五分後、また開いた。
直人に聞けば、表にしてくれるのかもしれない。
その考えが浮かび、すぐ消す。
違う。
自分でやる。
なぜそこまでこだわるのか。
美咲は椅子の背にもたれた。
健一と暮らしていた頃、家計の大きな決定は彼がすることが多かった。住宅ローンの相談。保険。車。美咲も話し合っているつもりだったが、最終的には「俺が調べとくよ」と健一が決めた。
楽だった。
そして、裏切られたとき、美咲は思い知った。
自分が任せていたものがどれほど多かったか。
離婚後、銀行口座も保険も契約も、全部自分で確認した。
わからない言葉を一つずつ調べた。
そうしてようやく、「自分の人生を自分で持っている」という感覚を取り戻した。
だから誰かに「やってあげる」と言われると怖くなる。
また自分の人生のハンドルを渡してしまうような気がする。
直人は「やってあげる」とは言っていなかった。
手伝うと言っただけだ。
美咲はそこまで考えて、苦笑した。
水深を測りながら進めばいい。
由紀の言葉を思い出す。
相手のことだけではない。
自分の中にどんな岩が沈んでいるのかも、測らなければならないのかもしれない。
翌日、美咲は直人にメッセージを送った。
〈昨日は私もきつく言ってすみません。手伝ってもらうのが苦手なんです〉
しばらくして返事が来た。
〈わかりました。じゃあ、勝手には手を出さないようにします〉
続けてもう一通。
〈必要になったら、言ってください。必要じゃなければ何もしません〉
美咲はその文章を見つめた。
「助ける」ではなく、「必要なら言ってください」。
その距離がありがたかった。
その週末、花の誕生日を家で祝った。
由紀親子を招き、小さなケーキに六本のろうそくを立てた。健一は昼間に花を連れ出し、夕方には新しい図鑑を持たせて送り届けていた。
花はもらった色鉛筆で、早速大きな画用紙に絵を描いた。
美咲と花。由紀と娘。健一。そして少し離れたところに、眼鏡をかけていない細長い男の人がいる。
「これ誰?」
由紀が聞いた。
「なおと」
美咲は思わず花を見る。
「どうして伊藤さんがいるの?」
「おともだちだから」
花は当然のように答えた。
「今度、なおともおたんじょうび来る?」
「誕生日は今日でしょ」
「七さいのとき」
一年後の話を、子どもは簡単にする。
美咲の胸が冷えた。
由紀がその表情に気づき、花が別の遊びを始めてから小声で言った。
「怖くなった?」
「……うん」
「何が?」
「花が、あの人を当たり前に覚えていくこと」
由紀はすぐには返さなかった。
「もし私が途中でやめたら、花も失うことになる」
「そうだね」
「だから、やっぱり会わせるの早かったかな」
「それは私にはわかんない。でも、美咲が一回お茶しただけで、花の人生が決まるわけじゃないよ」
「でも子どもって、大人より簡単に信じるじゃん」
美咲は自分で言って、胸が痛んだ。
簡単に信じることを、いつから危険なことだと思うようになったのだろう。
夜、花が眠る前にも、その話が出た。
「ママ」
「なに?」
「なおと、パパになる?」
美咲は息を止めた。
「ならないよ」
反射的に強く答えてしまった。
花が目を丸くする。
「……そっか」
「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」
「パパはパパだもんね」
花は布団を顎まで引き上げた。
「そう。パパはパパ」
「じゃあ、なおとは?」
美咲は考えた。
「今は、ママのお友だちになりかけてる人かな」
「なりかけ?」
「まだ、よく知ってる途中」
花は首をかしげてから、「花も?」と聞いた。
「うん。花も知ってる途中」
「じゃあ、もっと知ったら何になる?」
答えられなかった。
「それは、まだわからない」
花は「ふうん」と言って目を閉じた。
美咲は暗い天井を見上げた。
直人との距離だけを測ればいいわけではない。花との距離、健一との境界、自分が何を望むのか。その全部が同時に動く。
翌日、直人から電話があった。
これまでメッセージばかりだったので、美咲は目を丸くした。
『今、話せます?』
「少しなら」
『昨日のこと、もう一つ謝ろうと思って』
「昨日?」
『資格の話。実は、帰ってから市の制度を検索しかけたんです』
美咲は黙った。
『でも途中で、これやったら駄目だと思って閉じました』
「どうして、それをわざわざ言うんですか」
『僕、たぶん「役に立つこと」で人との距離を縮めようとする癖があるからです』
直人の声はいつもの軽さがなかった。
『何かしてあげれば必要としてもらえる、みたいな。前の彼女にも言われました。頼んでないのに予定を決めたり、旅行を組んだりして、本人は親切のつもりだから厄介だって』
「……かなり厄介ですね」
『はい』
即答され、美咲は小さく笑った。
『だから、高橋さんが嫌だって思ったら言ってください。たぶん僕、一回言われただけで全部直るタイプじゃないので』
「自信を持って言うことじゃないです」
『本当に』
通話を切ったあと、美咲はしばらくスマートフォンを握っていた。
人は、自分の欠点を口で説明したからといって変われるわけではない。それはよく知っている。健一も何度も「もうしない」と言った。
けれど直人は、「自分は大丈夫」と証明しようとはしなかった。
直せていない部分を、自分でも見張ろうとしていた。
その姿勢を信じていいかどうかは、まだわからない。
ただ、美咲は初めて、相手の欠点を見つけたことに安心するのではなく、欠点とどう付き合う人なのかを見てみたいと思った。
数日後、花を寝かせたあと、美咲は通信講座の資料請求をした。
直人には報告しなかった。
まずは自分で一歩進みたかった。
けれど申込完了の画面を見たとき、なぜか彼の顔が浮かんだ。
それが悔しくて、少し嬉しかった。
資料が届いたら、まず自分で読む。わからないところがあれば由紀に聞く。それでも必要なら、直人にも聞いてみる。
美咲はそう順番を決めた。誰にも頼らないのではなく、誰に何を頼るかを自分で選ぶ。
それなら、自分の人生のハンドルを手放すことにはならないのかもしれない。
小さな違いだった。けれど、その違いは美咲にとって、思っていたよりずっと大きかった。たぶん、これも前へ進む練習なのだ。




