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港の灯りはあなたを呼んでいる  作者: 久遠 睦


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第二部 新しい潮流   第四章 再会

伊藤直人の名刺は、一週間、美咲の財布の奥に入ったままだった。

 捨てるほどの理由もなく、取り出すほどの用事もない。

 レジでポイントカードを出すたび、白い紙の角が少しだけ見えた。

 その存在を意識している自分が嫌で、美咲は財布の中身を整理した。古いレシートを捨て、期限の切れたクーポンを抜き、診察券を並べ直す。

 それでも名刺だけは残した。

「何やってるの?」

 床で折り紙をしていた花が聞いた。

「お財布のお掃除」

「なおとの紙ある?」

 美咲は手を止めた。

「なんで覚えてるの」

「見たもん」

「よく見てるねえ」

「でんわする?」

「しないよ」

「なんで?」

「用事がないから」

 花は「ふうん」と言い、折り紙に戻った。

 子どもは大人が隠したいものほどよく見ている。

 土曜日、美咲は花の誕生日プレゼントを探しに元町へ出た。

 本人を連れていては選びにくいので、花は由紀の家に預かってもらった。由紀には小学生の娘がいて、花は「お姉ちゃんの家」に行くのを楽しみにしている。

「夕方までゆっくりしてきな」

 由紀にそう言われたとき、美咲は「プレゼント買ったらすぐ戻るよ」と答えた。

「そういうとこだよ」

「何が」

「自由時間を罪悪感で返上するところ」

 美咲は笑ってごまかした。

 元町商店街を歩く。

 玩具店で木製のままごとセットを見つけたが、値札を見て戻した。別の店では子ども用のカメラに花が喜びそうだと思ったが、予算を少し超えている。

 迷っているうちに一時間が過ぎた。

 結局、花が最近好きな絵本のシリーズと、小さな色鉛筆セットを買った。

 包んでもらった紙袋を手に外へ出たところで、雨が降り始めた。

「また雨……」

 傘は持っていたが、急ぐ必要もない。

 美咲は近くの書店へ入った。

 久しぶりに一人で本屋を歩くと、何を見ればいいのかわからなかった。

 子どもの絵本、料理、家計、資格試験。普段ならその辺りで足が止まる。

 今日はあえて奥へ進んだ。

 建築とデザインの棚の前で、見覚えのある横顔を見つけた。

 直人だった。

 分厚い本を一冊ずつ開き、真剣な顔で中身を確かめている。

 美咲は反射的に別の通路へ曲がろうとした。

「あ」

 遅かった。

「高橋さん?」

 直人が驚いた顔で近づいてきた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 美咲は紙袋を持ち直した。

「今日は花ちゃんは?」

「友人の家です。誕生日プレゼントを買いに」

「もうすぐ誕生日なんですね」

 直人はそこで止まった。

「……何歳になるんでしたっけ」

「六歳です」

「よかった。五歳って言ってたのに、七歳って言ったらどうしようかと」

 美咲は笑った。

「覚えてたんですね」

「本人が大きな声で言ってましたから」

「あなたの年齢も」

「それは忘れてほしいです」

 前より会話が自然だった。

 二度偶然会い、イベントでも一緒になったという事実が、完全な他人という距離を少し縮めていた。

「何の本を探してるんですか」

 美咲は棚を見た。

「古い集合住宅の改修事例です。今、長田の物件を担当してて」

「建てるだけじゃないんですね」

「むしろ今ある建物をどう残すか考える仕事が多いです」

 直人は一冊取り出し、写真を見せた。

「これ、外壁を全部新しくしてるように見えるんですけど、窓の位置は昔のままなんです。住んでる人にとっては、窓から見える景色も家の記憶なので」

 話し始めると、直人の声に熱が入った。

 公園で子どもに話していたときとは違う表情だった。

「すみません。興味ないですよね」

 途中で我に返ったように言う。

「いえ。わからないけど、面白いです」

「わからないのに?」

「わからないから」

 美咲自身、意外な返事だった。

 直人は嬉しそうに笑った。

「高橋さんは、本、読みます?」

「最近はあまり。寝かしつけながら自分も寝ちゃうので」

「わかります、と言いたいけど、僕には子どもいないからわからないですね」

 その言い直しに、美咲は目を上げた。

「適当に『わかる』って言わないんですね」

「言って怒られたことがあるので」

「誰に?」

「妹に。子育て大変そうだね、わかるよって言ったら、『何がわかるの』って」

 直人が肩をすくめた。

「正論だったので、それ以来気をつけてます」

 美咲はふっと笑った。

 完璧な対応を最初から知っていたのではなく、失敗して学んできたのだと思うと、直人の言葉を受け取りやすかった。

 店内放送が流れた。

 雨が強くなっているという。

「よかったら、下のカフェで雨宿りしませんか」

 直人が言った。

 美咲の中で警報が鳴る。

 二人でお茶をする。

 それは「偶然会って少し話す」より一段先にある行為だった。

 美咲は時計を見た。

 花を迎えに行くまで、まだ二時間ある。

「……少しだけなら」

 答えたあと、心臓が一度大きく鳴った。

 カフェは混んでいた。

 二人は窓際の小さなテーブルに向かい合った。

 美咲はコーヒー。直人はカフェラテを頼んだ。

「甘いの飲むんですね」

「疲れてるときは」

「今日、休みじゃないんですか」

「休みです。一応」

 直人がスマートフォンを伏せてテーブルに置く。

「さっきまで会社から三件電話来てました」

「イベントの日も来てましたね」

「見られてた」

「聞こえました」

 直人は困ったように笑った。

「仕事、忙しいんですか」

「忙しいというか……僕が抱え込みやすいんだと思います」

 意外な言葉だった。

「人に任せるのが苦手で。自分でやった方が早いって思って、気づくと全部自分のところにある。で、最後に時間なくなって周りに迷惑かける」

「それ、効率悪くないですか」

 美咲が言うと、直人は吹き出した。

「高橋さん、結構はっきり言いますね」

「すみません」

「いや、その通りなんで」

 彼はラテの泡をスプーンで崩した。

「前に付き合ってた人にも、それで振られました」

 美咲はカップを持つ手を止めた。

「……聞いていい話ですか」

「僕が勝手に言い出したので」

 直人は窓の外を見た。

「大学から付き合ってた人がいたんです。社会人になってからも何年か。結婚の話も出てた。でも僕、仕事始めたばっかりで、何か結果出さなきゃって焦ってて」

「忙しかった?」

「忙しいのを言い訳にしてました。誕生日に仕事入れたり、旅行を前日にキャンセルしたり。謝ればわかってもらえると思ってた」

 美咲の胸に、小さな棘が刺さる。

 約束を破る。

 謝ればいいと思う。

 その言葉は、健一との記憶に少し触れた。

 直人は気づかず続けた。

「最後に、『あなたの人生には仕事を置く場所しかない』って言われました」

「それで別れたんですか」

「はい。三年前です」

「直そうとは?」

「そのときは、相手が理解してくれないって思いました」

 直人は苦笑した。

「最悪ですよね。あとになって、自分が約束を軽く扱ってたんだってわかった」

 美咲は黙った。

「今は直ったんですか」

 直人はしばらく黙って考えた。

「直してる途中です」

 その答えに、美咲はなぜか安心した。

 「もう大丈夫です」と言われるより、信用できる気がした。

「高橋さんは?」

「え?」

「すみません。聞き返すみたいで。話したくなかったらいいです」

 直人は慌てて付け足した。

 美咲は窓を打つ雨を見た。

「離婚してます」

「……はい」

「花の父親とは、月に一、二回会わせています」

「そうなんですね」

 それだけだった。

 「大変ですね」も、「若いのに」も、「元旦那は何したんですか」もなかった。

 美咲の方が拍子抜けした。

「聞かないんですか」

「何をですか」

「どうして離婚したのか、とか」

「高橋さんが話したくなったら聞きます」

 直人は言葉を選ぶように続けた。

「最初に知る必要があることじゃない気がするので」

 美咲はカップの中に目を落とした。

 必要があること。

 その言葉が胸に残った。

 自分はいつから、「離婚歴」と「子ども」が初対面で提出すべき履歴書のようになったのだろう。

 この二つを先に見せ、相手が離れていくなら、傷つく前に済む。

 そうやって自分から検査をしていたのかもしれない。

 雨はなかなか弱くならなかった。

 直人は建築の話をし、美咲は会社の仕事の話をした。

 資格を取ろうか迷っていることまで、なぜか話した。

「簿記二級?」

「まだ、取るって決めてません」

「どうして?」

「時間もお金もかかるし」

「でも取りたい?」

 美咲は答えに詰まった。

「……取れたら、選べる仕事が増えるかもしれない」

「じゃあ、取りたいんじゃないですか」

 直人は簡単に言った。

「そんな単純じゃないんです」

 美咲の声が少し硬くなった。

「子どもがいて、仕事して、家のこともあって。勉強の時間が勝手に増えるわけじゃないし」

「あ……すみません」

 直人はすぐ謝った。

「簡単に言いすぎました」

 その素直さに、美咲の苛立ちが行き場を失う。

「いえ、私も」

「いや。僕、こういうところあるんです。答えが見えると、途中の大変さを飛ばして言っちゃう」

 直人は自分の失敗を分析するように言った。

「仕事でも、『こうすればいい』って先に言って、後輩に嫌がられます」

「嫌がられてるんですね」

「たぶん結構」

 二人で笑った。

 雨が小降りになった頃、直人が会計票を取った。

「ここは僕が」

「いえ、自分の分は払います」

「誘ったので」

「それでも」

 美咲は財布を出した。

 直人が一瞬迷ったあと、「じゃあ別々で」と言った。

 その反応にも、いくらかほっとした。

 無理に奢られると、何か借りができるようで苦手だった。

 店を出る前、直人が言った。

「名刺、渡したの、迷惑でした?」

 美咲は驚いた。

「どうして?」

「連絡なかったから」

 直球だった。

「用事がなかったので」

「ですよね」

 直人は笑ったが、少し残念そうにも見えた。

「じゃあ、用事がなくても連絡していいですか」

 美咲は答えを探した。

「たとえば?」

「今日見つけた変な建物の写真とか」

「困ります」

「即答」

「冗談です」

 自分がそんな言い方をしたことに、美咲自身が驚いた。

 直人も驚いた顔をしてから笑った。

「じゃあ、変じゃない建物にします」

「建物限定なんですね」

「何を送れば正解かわからないので」

 美咲はしばし迷い、スマートフォンを取り出した。

「私から送ります。名刺の番号でいいですか」

「はい」

 連絡先を交換するという単純な行為に、指が少し震えた。

 帰りの電車で、由紀からメッセージが来た。

〈花、クッキー焼いてる。急がなくて大丈夫〉

 その下に、粉まみれの花の写真が添えられている。

 美咲は笑った。

 続けて別の通知が出た。

〈伊藤です。今日はありがとうございました。雨宿りに付き合わせてすみません〉

 もう連絡が来た。

 美咲は数分迷ってから返信した。

〈こちらこそ。建物の話、面白かったです〉

 送る。

 すぐ既読がついたが、返事はしばらく来なかった。

 十分。二十分。

 美咲は自分が通知を気にしていることに気づき、腹が立った。

「何してるんだろ」

 窓の外へ目を向ける。

 やがて、三宮を過ぎたところで返信が来た。

〈それならよかったです。仕事の電話に捕まってました。またやってます〉

 最後に、困った顔の小さな絵文字がついていた。

 美咲は笑いそうになった。

〈休日ですよね〉

〈はい。反省します〉

〈口だけにならないように〉

 送ってから、言いすぎたかと思った。

 数秒後。

〈厳しい。でも正しいです〉

 美咲はスマートフォンを伏せた。

 由紀の家へ迎えに行くと、玄関まで甘い匂いが漂っていた。花はエプロン姿で飛び出してきた。

「ママ! クッキー作った!」

「すごいね」

「ハートはママ。おほしさまは花」

 由紀が後ろから紙袋を差し出した。

「ちゃんと二人分あるから」

「ありがとう。本当に助かった」

 美咲が頭を下げると、由紀は顔を覗き込んだ。

「で、プレゼント買えた?」

「買えたよ」

「それだけ?」

 勘がいい。

「本屋で伊藤さんに会った」

「ほら!」

「声大きい」

 花がすぐ反応した。

「なおと?」

「伊藤さん」

「また会ったの?」

 由紀が楽しそうに聞く。

「偶然。雨宿りでお茶しただけ」

「お茶したんだ」

「雨だったから」

「連絡先は?」

 美咲は黙った。

 由紀は口元を押さえた。

「交換したのね」

「大げさにしないで」

 花が美咲の手を引いた。

「なおと、花にもでんわする?」

「しないよ。ママのお知り合いだから」

「おともだちになった?」

 美咲は答えに詰まった。

「……少しだけ」

 花は満足そうに頷いた。

 帰宅後、花を寝かせてから、美咲はスマートフォンを充電器につないだ。

 直人とのやり取りをもう一度読み返しそうになり、自分で自分を止める。

 健一と付き合い始めた頃にも、似たことをしていた。返信の言葉を何度も読み、句読点一つに意味を探し、名前が画面に出るだけで嬉しくなった。

 その記憶がよみがえると、胸の温かさにすぐ冷たいものが混じる。

 恋愛は、楽しいだけでは終わらない。

 誰かを好きになるということは、自分では管理できない場所を相手に渡すことだ。

 予定どおりに動かない感情。待つ時間。疑う余地。失う可能性。

 美咲は、その不確かさから二年間遠ざかってきた。

 翌朝、直人から写真が一枚届いた。

 古い商店の軒先だった。木の看板の上に、小さな猫が座っている。

〈変じゃない建物を探したんですが、猫が主役になりました〉

 美咲は思わず笑った。

〈建物が見えません〉

〈失敗です〉

 それだけのやり取りだった。

 次の日は連絡がなかった。

 その次の日も。

 美咲はほっとしながら、物足りなさも感じていた。

 三日目の夜、花を寝かせたあとにメッセージが届いた。

〈今度、もし都合が合えば三人でお茶しませんか。花ちゃんも一緒で〉

 画面を見たまま、美咲は動かなかった。

 「三人で」という言葉に安心する自分と、花まで巻き込むことに警戒する自分がいた。

 子どもを含めて会おうとするのは誠実なのか。それとも距離を詰めるのが早いのか。

 答えを出せず、スマートフォンを置いた。

 十分後、もう一度手に取る。

〈急にすみません。無理なら気にしないでください〉

 追伸が来ていた。

 美咲は長い時間をかけて、短い文章を打った。

〈少し考えさせてください〉

 直人からは、すぐに〈もちろんです〉と返ってきた。

 催促も、理由を聞く言葉もなかった。

 そのことが、美咲にはありがたかった。

 同時に、自分が「断る理由」ではなく「行ってもいい理由」を探し始めていることに気づいた。

 胸の奥が、少しだけ温かかった。

 同時に、怖かった。

 誰かとのやり取りを待つ感覚を、体が覚えていた。

 かつては幸せだったその感覚が、後には恐怖に変わったことも。

 美咲は窓に映る自分の顔を見た。

 まだ何も始まっていない。

 ただ連絡先を交換しただけだ。

 それなのに、心のどこかで波が立っていた。

 静かな港に、見知らぬ潮が入り始めていた。

 それを追い返すことも、迎え入れることも、まだ美咲には決められなかった。

 ただ、以前なら迷う前に閉じていた扉の前で、今回は立ち止まっている。その事実だけは、自分でも無視できなかった。


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