第三章 見知らぬ日常の海
翌週の土曜日、美咲は花を連れて須磨海浜公園へ出かけた。
前日の雨が空気を洗ったようで、海は秋の日差しを細かく反射していた。遠くに船が見え、砂浜では子どもたちが靴を脱いで波打ち際を走っている。
「ママ、ボール!」
花が黄色いゴムボールを高く掲げた。
「人にぶつけないようにね」
「はーい」
返事だけは立派だった。
美咲は芝生にレジャーシートを広げ、コンビニで買ったコーヒーを置いた。花が走り出すのを見届けてから、鞄の中の封筒を取り出す。
幼稚園の遠足費用の案内だった。
支払期限は来週。
金額は、払えないほどではない。けれど「払えないほどではない出費」が毎月いくつも重なる。
花の新しい靴。予防接種。冬物の上着。自転車の後輪も少し空気が抜けやすい。
美咲は封筒をたたみ直した。
「今日は考えない」
誰に聞かせるでもなく呟く。
せっかくの休日なのだ。
花と海を見に来た。お金の計算をするためではない。
「ママー!」
呼ばれて顔を上げると、黄色いボールが芝生の斜面を転がっていた。
花はそれを追いかけ、勢い余って一人の男性のすぐそばで尻もちをついた。
「花!」
美咲は立ち上がった。
男性は芝生に折り畳み椅子を置き、膝の上にスケッチブックを広げていた。足元には鉛筆と小さな水筒がある。
「大丈夫?」
彼はまずボールではなく、転んだ花の方に手を伸ばした。
「いたくない」
花は強がるように言って立ち上がった。
「そっか。じゃあ、このボールの方がびっくりしたかな」
男性が拾い上げたボールを耳に当てる。
「……うん。『急に坂を転がされて怖かった』って言ってる」
「しゃべらないよ!」
花が笑った。
そのやり取りに、美咲は肩の力を抜いた。
「すみません。お邪魔して」
「いえ。何も壊れてないですから」
男性はそう言い、足元のスケッチブックを確認した。
「あ」
花が覗き込む。
「おうち?」
紙には、海辺の風景ではなく、近くに見える建物の輪郭が描かれていた。窓の配置や庇の形が細かく書き込まれている。
「そう。建物を描いてたんだ」
「じょうず」
「ありがとう」
男性は笑った。
年齢は三十前後だろうか。黒いシャツの袖を肘までまくり、髪は風に乱れている。整った顔立ちというより、表情の動きが穏やかな人だった。
「お名前は?」
花が先に聞いた。
「人に名前聞くときは、自分から言うんだよ」
美咲が注意すると、花は胸を張った。
「たかはしはな、五さいです」
「丁寧だね」
男性はふっと笑い、それから花と同じ目線になるよう膝を曲げた。
「僕は伊藤直人。二十九歳です」
「にじゅうきゅうさい!」
なぜか花が大声で復唱した。
「そこは小さい声でいいかな」
直人が苦笑する。
美咲も思わず笑ってしまった。
「高橋美咲です。すみません、本当に」
「伊藤です。こちらこそ、勝手にボールと会話してしまって」
会話はそこで終わるはずだった。
美咲は花の手を取り、レジャーシートへ戻ろうとした。
「あの」
直人が声をかけた。
「これ、落としましたよ」
彼の手には遠足費用の封筒があった。
美咲は一瞬、顔が熱くなった。金額まで見えるものではないのに、財布の中を覗かれたような気がした。
「ありがとうございます」
受け取る手が少し早くなった。
直人は何も聞かなかった。
ただ、「風強いですね」と言っただけだった。
美咲はそのことに、ほっとした。
レジャーシートへ戻ると、花はすぐまたボールを蹴り始めた。
美咲はコーヒーを飲みながら、なるべく直人の方を見ないようにした。
意識すればするほど視界の端に入る。
彼はしばらく建物を描いていたが、やがて立ち上がり、海の方へ歩いていった。
それだけの出会いだった。
なのに帰りの電車で、花が繰り返し話した。
「なおと、ボールの声きいてた」
「伊藤さん、ね」
「なおとって言ってた」
「大人の人を急に呼び捨てにしないの」
「なんで?」
「なんでって……そういうものなの」
花は窓の外を見ながら、「なおとの絵、じょうずだったね」と言った。
「そうだね」
美咲は短く返した。
名前を口にすると、妙に具体的になってしまう気がした。
家に着くと現実が待っていた。
洗濯物を取り込み、夕食を作り、花を風呂に入れる。寝かしつけの最中、花が急に言った。
「ママ、なおととおともだち?」
「今日会っただけだから、お友だちじゃないよ」
「じゃあ、また会ったらおともだち?」
「どうだろうね」
花はあっさり眠った。
美咲はしばらく天井を見つめていた。
また会うことなどないだろう。
神戸は狭いと言っても、人は多い。偶然会った他人は、そのまま他人で終わる。
そう思った。
月曜日、会社で由紀に須磨へ行った話をした。男性と会ったことまで話すつもりはなかったのに、会話の流れで花が転んだことを説明すると、自然に直人の存在も出てきた。
「へえ。二十九歳の建物描く人」
由紀がにやにやした。
「なんで年齢まで覚えてるの」
「花が大声で復唱したから」
「運命じゃん」
「どこが」
「神戸の海辺で娘のボールを拾う年下男。もう一話目じゃん」
「何の一話目よ」
美咲は伝票を揃えながら言った。
「そういうのじゃないから」
「別にそういうのでもいいじゃない」
「一回会っただけの人だよ」
「一回会っただけで終わるかどうかは、まだわかんないでしょ」
由紀の軽い言い方に、美咲はなぜか苛立った。
「私、そういうのいらないから」
思ったより強い声が出た。
由紀が目を瞬く。
「あ、ごめん」
「こっちこそ。ごめん」
美咲は視線を落とした。
「恋愛とか、本当に今は無理。花もいるし」
「うん」
「知らない男の人を生活に入れるとか、考えられない」
「うん」
由紀は今度は茶化さなかった。
「だから、ただボール拾ってくれた人。それだけ」
言い切ると、美咲はいくらか安心した。
言葉で線を引けば、そこから先へ進まなくて済む。
ところが、その週の木曜日、幼稚園から一枚のチラシを持ち帰った花が、美咲の前に広げた。
「これ行きたい!」
地域の親子向けイベントだった。
古い建物を見ながら街を歩き、最後に子どもたちが「自分の町」を工作するという企画。会場は元町周辺で、地元の建築士や大学生が協力すると書かれていた。
「おうち作るの?」
「そうみたい」
「行きたい!」
参加費は無料だった。
美咲はそこを最初に確認してしまった自分に苦笑した。
「じゃあ申し込もうか」
日曜日。集合場所に着いた瞬間、美咲は足を止めた。
「あ」
花が先に見つけた。
「なおと!」
スタッフ用の腕章をつけた直人が振り向いた。
「……花ちゃん?」
本当に驚いた顔をしていた。
美咲はなぜか、それに安心した。待ち伏せされたわけではない。当たり前だが、そう確認できた。
「こんにちは」
直人が美咲にも頭を下げた。
「先日はどうも」
「こちらこそ。今日はスタッフなんですね」
「勤務先が協力してるんです。僕、設計事務所に勤めていて」
公園でのスケッチは仕事のためだったらしい。
「おうち作るの?」
花が聞く。
「今日は花ちゃんが作るんだよ」
「なおとも作って」
「先生役だから、あんまり作っちゃ駄目なんだ」
「なんで?」
「子どもが考えるのを大人が取っちゃうから」
直人はさらりと答えた。
美咲はその言葉を意外に思った。
公園でもそうだった。彼は子どもに優しいというより、子どもを一人の人間として扱うのが自然なのだ。
開始前、スタッフが参加者を班に分けているあいだ、直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面を見るなり、眉間に小さく皺を寄せた。
「すみません、ちょっとだけ」
少し離れたところで電話に出る。声は抑えていたが、「今日ですか」「図面は昨日送りました」「それは月曜でも」と断片が聞こえた。
しばらくして戻ってきた直人は、申し訳なさそうにスタッフの女性へ頭を下げた。
「会社?」
花が遠慮なく聞いた。
「そう。お休みなのに、仕事が僕を追いかけてきた」
「にげたら?」
「そうしたい」
直人が笑う。だが、ポケットにしまったスマートフォンを気にしているのがわかった。
美咲は、その姿に現実味を感じた。公園で絵を描き、子どもに穏やかに話しかけるだけの人ではない。休日でも電話を切れない仕事をしている人なのだ。
イベントの責任者らしい女性が直人に声をかけた。
「伊藤くん、会社戻らなくて大丈夫?」
「大丈夫です。今日はこっちにいるって言ってあるんで」
「前もそう言って、途中で消えたじゃない」
直人が苦い顔をした。
「あれは本当にすみませんでした」
「子どもたち、『直人先生どこ?』って探してたんだからね」
「今日は消えません」
冗談めかした会話だったが、美咲は覚えておいた。
直人は約束を必ず守れる人、というわけではないらしい。
なぜそんなことに安心したのか、自分でもわからなかった。
完璧な人を見ると、美咲は身構える。完璧に見えるものほど、どこかに裏側があるのではないかと疑ってしまうからだ。
その点、仕事の電話に追いかけられ、同僚に過去の失敗を暴露されて困っている直人は、少なくとも作り物には見えなかった。
街歩きが始まった。
古い商館の窓枠、石積みの壁、路地の幅。直人は子どもたちに専門用語を使わず、「この窓、なんでこんなに細長いと思う?」と問いかけた。
花は何でも答えた。
「おしゃれだから!」
「それも正解かもしれない」
「雨がはいらないから!」
「なるほど。じゃあ雨の日に見に来たらわかるね」
正解を押しつけない。
美咲は少し離れて歩きながら、その姿を見ていた。
途中、別の子が走り出し、直人は反射的に腕を伸ばした。
「ストップ。車来るから」
声が少し強かった。
子どもが驚いて泣きそうになる。
「あ、ごめん。怖かったよね」
直人はすぐしゃがんだ。
「でも、ここは車が来る道なんだ。僕も一緒に渡るから、手つないでもいい?」
子どもは頷いた。
完璧に子ども慣れしているわけではないのだと、美咲は思った。
失敗したとき、誤魔化さない人なのかもしれない。
街歩きの後半、花が急に「トイレ」と言い出した。美咲が場所を探していると、直人が「あっちの施設にあります」と案内した。ところが入口まで来たところで、直人は一緒に入ろうとするように数歩進み、美咲に見られてはっと止まった。
「あ、すみません。僕、何してるんだ」
「ここから大丈夫です」
「ですよね」
耳が少し赤くなっている。
美咲は思わず笑った。
「子ども、慣れてるんじゃないんですか」
「全然です。妹の子どもとたまに遊ぶくらいで。さっきも道路で声大きくしちゃったし」
「でも、ちゃんと謝ってました」
「謝る回数が多い大人なんです」
直人は自嘲気味に言った。
「仕事でも?」
「仕事では……謝る前に何とかしようとして、余計こじらせる方かもしれません」
その答えには、軽い冗談だけではないものが混じっていた。
美咲が聞き返す前に、トイレから花の声が飛んできた。
「ママー、できたー!」
「はいはい!」
美咲は急いで中へ入った。
戻ってきたとき、直人はもう別の親子に説明をしていた。
さっきの言葉だけが、美咲の頭に残った。
工作の時間になり、花は紙箱を積み上げ始めた。
「これ、ママのおうち。こっち、花のおうち」
「同じじゃないの?」
美咲が笑う。
「こっちはパパのおうち」
花はもう一つ箱を置いた。
周囲の保護者が一瞬だけこちらを見た気がして、美咲の肩がこわばる。
直人は何も気にした様子を見せず、三つの箱の間を指差した。
「道も作る?」
「うん!」
花は青い色紙を細長く切り、家と家の間に貼った。
「これは海」
「道じゃなかった」
直人が笑う。
「船で行くの」
花の世界では、家が離れていても海でつながるらしい。
美咲はその青い紙を見つめた。
イベントが終わる頃、雨が降り始めた。
参加者たちは急いで帰り支度をし、美咲も花に上着を着せた。
「傘あります?」
直人が聞いた。
「あります。折り畳み」
「よかった」
彼はそれ以上、送るとも、駅まで一緒に行くとも言わなかった。
その距離感が心地よかった。
「伊藤さん」
美咲は自分から声をかけていた。
「はい」
「今日、ありがとうございました。花、すごく楽しかったみたいで」
「僕も楽しかったです。花ちゃん、発想が面白いですね」
花が工作を抱えたまま割り込む。
「なおと、またいる?」
直人は困ったように美咲を見た。
子ども相手に安易な約束をしないためだと、その視線でわかった。
「こういうイベントには、ときどきいるよ」
「つぎも行く!」
美咲は苦笑した。
「予定が合ったらね」
直人は胸ポケットから一枚のカードを出した。
「これ、今日の主催団体のサイトです。次のイベントも載ります」
名刺ではなく、イベント案内のカードだった。
裏面にQRコードがある。
「ありがとうございます」
受け取った瞬間、直人がためらうように続けた。
「……それと、もし迷惑じゃなければ」
彼は今度こそ自分の名刺を出した。
「僕の連絡先です。仕事用ですけど。建物のことじゃなくても、今日みたいなイベントでわからないことがあれば」
言い訳のような説明だった。
差し出した手に、少し緊張が見えた。
美咲は名刺を見た。
伊藤直人。建築設計部。
受け取るだけなら、何も始まらない。
捨てることもできる。
「ありがとうございます」
そう言って受け取った。
駅へ向かう途中、花が傘の下で聞いた。
「ママ、なおと好き?」
美咲は足を止めそうになった。
「どうしてそうなるの」
「おはなししてたから」
「お話したら好きなの?」
「花、せんせい好きだよ。いっぱいおはなしする」
美咲は笑ってしまった。
「じゃあ、伊藤さんは……まだ、よく知らない人」
「知らない人なのに、お名前知ってるね」
「そうだね」
子どもの理屈に負けた。
その夜、花が寝たあと、美咲は鞄から名刺を取り出した。
捨てる理由はない。
連絡する理由もない。
机の上に置き、洗い物をした。
終わって戻ると、白い名刺がまだそこにある。
健一以外の男性の連絡先を、自分の意思で受け取ったのはいつ以来だろう。
美咲は名刺を財布の奥にしまった。
それは恋の始まりなどではなかった。
少なくとも、美咲はそう思っていた。
ただ、閉じ切っていた窓をほんの数センチだけ開けたような感覚があった。
そこから入ってきた風は冷たくも、甘くもない。
ただ、知らない海の匂いがした。
それまでの美咲にとって、知らないものは避けるべきものだった。予定外の出費。突然の電話。人の好意。未来の約束。どれも、自分では制御できないから怖かった。
けれど、その夜だけは、知らないということがわずかに違って見えた。
危険ではなく、まだ名前のついていない可能性のように。
もちろん、そう思った自分を認めるには、美咲はまだ少し臆病だった。
その夜は、それで十分だった。




