第二章 幽霊船
花の熱は翌朝には下がった。
念のため幼稚園を休ませ、美咲も会社に欠勤の連絡を入れた。午前九時、布団の中で元気を取り戻した花が「つまんない」と言い始めた頃、美咲のスマートフォンに健一からメッセージが届いた。
〈熱、どう?〉
〈下がった。今日は休ませる〉
しばらくして、また通知が鳴る。
〈昼前に近く通る。プリンでも置いていこうか〉
美咲は画面を見つめた。
断る理由はいくつも浮かんだ。もう元気だ。家にある。わざわざ来なくていい。
けれど昨日の電話で、自分から「まだ熱があったら連絡する」と言ったことを思い出した。花の父親なのだから、病気を心配する権利はある。
〈ありがとう。玄関で受け取る〉
送信したあと、無意識に部屋を見回した。
散らかった積み木を片づけ、洗濯物をベランダに出す。来客を迎えるためというより、健一に「困っている」と思われたくなかった。
十一時半、インターホンが鳴った。
「パパ!」
花が駆け出した。
「走らないの。昨日熱出したばっかりでしょ」
ドアを開けると、健一がコンビニの袋を提げて立っていた。紺色のスーツに、少し疲れた顔。二年前よりわずかに痩せたようにも見える。
「よ」
「ありがとう」
「花、元気そうじゃん」
「もう大丈夫」
花が美咲の脇から顔を出した。
「パパ、はいっていい?」
空気が固まった。
健一が先に美咲を見る。
「俺は玄関でいいよ」
その遠慮が、かえって美咲を戸惑わせた。
「……少しだけなら」
健一は靴を脱いだ。
以前なら当たり前に上がっていた家ではない。離婚後、美咲と花が借りた部屋だ。健一がこの部屋に入るのは初めてだった。
花は嬉しそうにプリンの袋を開け、健一の膝に乗った。美咲は少し離れた台所で麦茶を注ぐ。
「日曜、動物園行くんだよね」
「行くぞ。キリン見るか」
「ライオン!」
「ライオンか」
二人のやり取りは自然だった。
それを見ると、美咲の中で複雑な感情が動く。
健一が花を愛していることを疑ったことはない。だからこそ、夫としての彼が壊したものと、父親としての彼が持ち続けているものを、一つの箱に入れて片づけることができなかった。
「美咲」
「なに」
「これ」
健一が封筒を差し出した。
「先月の養育費、五日遅れたから。今月分と一緒に少し多く入れた」
「振り込みでいいのに」
「昨日、花の熱のこと聞いて、何かと金かかるかなと思って」
美咲の背中が硬くなった。
「決めた額でいい」
「別に恩着せるつもりじゃない」
「そういう問題じゃない」
花が二人を見た。
美咲はそれに気づき、声を落とした。
「ありがとう。でも、約束の額だけでいいから」
健一は何か言いたそうにしたが、封筒を引っ込めた。
「わかった」
その短い返事が、昔とは違っていた。
結婚していた頃なら、健一は「意地張るなよ」と言っただろう。美咲も「そっちが言うことじゃない」と言い返しただろう。
離婚は、二人の間に大きな穴を開けた。その穴のおかげで、以前より言葉を選べるようになった部分もある。
皮肉なことだった。
健一が帰ったあと、花はプリンを食べながら聞いた。
「パパ、ここに住まないの?」
「住まないよ」
「なんで?」
昨日に続く質問だった。
「パパにはパパのおうちがあるから」
「ママのおうちはここ?」
「うん」
「花のおうちは?」
「ここだよ」
花はしばらく考えてから、「じゃあパパのおうちも花のおうち?」と言った。
美咲は答えに詰まった。
「遊びに行く場所、かな」
「おうち二個あったらだめ?」
子どもの問いは、ときどき大人が作った境界線を簡単に飛び越える。
「だめじゃないよ」
美咲はそう答えた。
その言葉が自分自身にも向けられている気がした。
午後、花が昼寝を始めると、美咲はクローゼットの整理をした。季節の変わり目で、冬物を出しておきたかった。
奥から薄い段ボール箱が出てきた。
中身を見なくてもわかった。
結婚していた頃の写真だった。
捨てるつもりで持ってきたのに、結局捨てられなかったもの。花が生まれる前の写真も、赤ん坊の頃の写真もある。健一だけを切り取ってしまえば、花の歴史まで削ることになる気がして、そのままになっていた。
一冊目のアルバムを開く。
北野の異人館の前で、健一と肩を寄せて笑う自分がいた。
二十代の終わり。まだ結婚前だった。
「美咲、こっち向けよ」
写真を撮った友人の声まで思い出せそうだった。
健一の手は美咲の肩に回り、美咲は屈託なく笑っている。
この女の人は、自分なのだろうか。
当時の自分は、人を疑うことにこれほど体力を使わなかった。
電話が鳴ればただ出た。帰宅が遅ければ仕事が忙しいのだと思った。誰かに好かれれば、その好意をいったん受け取ることができた。
アルバムのページをめくる指が、ある写真で止まった。
花が生まれた日。病室で、健一が小さな花を抱いている。
彼は泣いていた。
それを見た瞬間、記憶の扉が開いた。
あの夜も、何の変哲もない平日だった。
花が二歳になったばかりの頃。美咲は寝かしつけを終え、リビングに戻った。健一は風呂に入っていた。
テーブルの上で彼のスマートフォンが震えた。
〈今日も会いたかった〉
ロック画面に、その一文だけが表示された。
見なければよかった。
そう思うことは今もある。
けれど、見なければ世界は壊れなかったのかと問われれば、違うとわかっている。ただ壊れていることを知らずに歩き続けただけだ。
風呂から出てきた健一は、美咲の顔を見て、すぐに何かを察した。
「これ、誰?」
美咲はスマートフォンを差し出した。
健一の顔から血の気が引いた。
「美咲、これは」
「誰?」
「会社の子」
「どういう関係?」
最初は「相談に乗っていただけ」と言った。
次に「何度か飲みに行った」と言った。
最後には「一回だけ」と言った。
真実が一段ずつ悪くなるたび、美咲の中で何かが冷えていった。
「ただの遊びだった」
健一はそう言った。
「本気じゃない」
本気ではないから何なのだろう、と美咲は思った。
むしろ、その言葉の方が残酷だった。
家族を壊す危険を冒してまでしたことが、「本気ですらなかった」と言われているようだった。
「子どもが生まれてから、俺たち、夫婦じゃなくなってたじゃん」
健一は焦っていた。言い訳を探し、そのたびに最悪の言葉を選んだ。
「美咲も花のことばっかりだったし」
「だから?」
「責めてるわけじゃない。ただ、俺も……寂しかったっていうか」
その瞬間、美咲は泣くことすらできなかった。
出産後、夜中に何度も起きたこと。熱を出した花を抱いて病院へ走ったこと。健一の帰宅に合わせて夕食を温め直したこと。自分の体型が変わり、髪を切りに行く時間さえ惜しかったこと。
それらすべてが「女でなくなった証拠」に変換されたように感じた。
「出ていって」
声は驚くほど静かだった。
「美咲」
「今日は顔見たくない」
健一は何度も謝った。
翌日も、その翌日も。
相手とは別れる、二度としない、カウンセリングにも行く、と言った。
美咲は一度、やり直そうとした。
そのことを誰にもほとんど話していない。
花のためにも、すぐ離婚するのは違うのではないかと思った。健一はスマートフォンをいつでも見ていいと言い、帰宅時間を報告し、休日は家族で過ごした。
けれど、美咲は楽にならなかった。
スマートフォンが鳴るたび、心臓が跳ねた。
健一が残業だと言うたび、本当かと思った。
優しくされれば罪悪感からだと疑い、疲れた顔をされれば自分といることが嫌なのかと疑った。
何より苦しかったのは、疑う自分が嫌いになっていくことだった。
ある夜、健一が眠ったあと、美咲は鏡の前に立った。
そこにいたのは、夫の行動を監視し、通知音に怯え、自分より若い女性のSNSを探してしまう女だった。
このままでは、自分まで壊れる。
そう思った。
離婚を切り出したとき、健一は泣いた。
「もう一回だけチャンスくれよ」
「一回あげた」
「花はどうするんだよ」
「それを言うなら、どうしてあのとき花のこと考えなかったの」
健一は何も言えなかった。
市役所に離婚届を出した帰り、美咲は駅のトイレで初めて声を殺して泣いた。
悲しかった。
悔しかった。
怖かった。
そして、ほっとしていた。
もう疑わなくていい。
もう彼の帰宅を待たなくていい。
その安堵を感じたことに、さらに泣いた。
アルバムの上に、ぽたりと水滴が落ちた。
美咲は慌てて指で拭った。
「泣いてるの?」
振り向くと、花が寝室の入り口に立っていた。
「起きたの?」
「うん。ママ、かなしい?」
美咲は急いで笑った。
「昔の写真見てただけ」
「見せて」
花は隣に座り、アルバムを覗き込んだ。
「あ、パパ!」
病室の写真を指差す。
「花、ちっちゃい!」
「ほんとだね」
「パパ泣いてる」
「うれしかったんだよ」
「ママも?」
「ママも、うれしかった」
それは嘘ではない。
美咲はそのことに救われるような、苦しくなるような気持ちになった。
過去は、全部が嘘だったわけではない。
楽しかった日も、愛されていると信じた日も、花が生まれて二人で泣いた日も、本当にあった。
だから裏切りは、過去まで汚す。
どこまでが本物だったのかわからなくさせる。
「これ、パパに見せてもいい?」
花が一枚の写真を指差した。三人で海辺にいる写真だった。
「いいよ」
美咲は答えた。
「これ、花が持っててもいい?」
「うん。大事にしてね」
花は写真を両手で持ち、宝物のように眺めた。
その夜、美咲は健一から届いた連絡を見た。
〈日曜、十時に迎えに行く。無理させないようにする〉
〈お願いします〉
それだけ返した。
日曜日、健一は時間どおりに来た。
花はお気に入りのリュックを背負い、玄関で飛び跳ねている。
「夕方五時には戻る」
「熱上がったらすぐ連絡して」
「わかってる」
健一が苦笑した。
「心配性だな」
その言い方が、結婚していた頃と同じで、美咲の胸が一瞬ざらついた。
けれど、健一はすぐ続けた。
「まあ、俺も気をつける」
花の手を引いて階段を下りる背中を、美咲は玄関から見送った。
「いってきます!」
花が振り向いて大きく手を振る。
「いってらっしゃい」
二人が見えなくなると、部屋は急に静かになった。
自由な一日だった。
洗濯も買い物も一人なら早い。映画だって観に行ける。カフェにも入れる。
それなのに、美咲はしばらく玄関に立ったまま動けなかった。
花がいない静けさは、休息ではなく空白に感じることがある。
美咲はコーヒーを淹れ、窓際に座った。
昼の港は、夜ほど幻想的ではない。クレーンや倉庫や船の輪郭がはっきり見える。
過去というものも、昼の港のように見えたらいいのにと思った。
何がどこにあるのか。何が沈み、何が残っているのか。
はっきり見えれば、もう怖くないのかもしれない。
けれど美咲の中では、昔の記憶はまだ霧の中を漂っていた。
捨てたつもりの言葉、忘れたつもりの痛みが、思いがけないところから戻ってくる。
まるで幽霊船だった。
港を出たはずなのに、いつまでも同じ海域を漂い、夜になると静かに岸へ近づいてくる。
夕方五時前、階段を駆け上がる足音がした。
ドアを開けると、花は紙袋を胸に抱えていた。中には動物園で買った小さなペンギンのぬいぐるみが入っている。
「ママ、見て! ペンちゃん!」
「よかったね」
健一はその後ろで靴の先を見ていた。何か言いにくそうな顔だった。
「どうしたの?」
「ああ……花に聞かれた」
「何を?」
花が先に答えた。
「パパ、好きなひといるんだって」
美咲の体が一瞬だけ硬くなった。
健一が慌てて口を挟む。
「変な意味じゃない。動物園で知り合いに会って、花が『だれ?』って聞いたから……。今、付き合ってる人がいる。それだけ」
胸の奥を古い爪で引っかかれたような痛みが走った。
相手があのときの女性なのか。いつからなのか。結婚するのか。
聞こうと思えば、いくらでも聞けた。
だが、美咲は一度息を吸った。
「花の前で話すことなら、先に私にも教えておいて」
「悪かった」
「会わせるつもりがあるなら、それも先に相談して」
「わかった」
健一は反論しなかった。
その素直さが、かえって時間の経過を感じさせた。二人はもう夫婦ではない。彼が誰を好きになろうと、美咲が口を出すことではない。ただ、花の生活に入ってくる人間については別だ。
「ママ、いや?」
花が不安そうに見上げた。
「ううん。びっくりしただけ」
「パパ、そのひととけっこんする?」
「まだそんな話じゃないよ」
健一が答えた。
花はしばらく考え、「けっこんしたら、そのひとも花のかぞく?」と聞いた。
美咲も健一も、すぐには答えられなかった。
「家族って、増えるの?」
花は純粋に不思議そうだった。
美咲はしゃがみ、花と目の高さを合わせた。
「増えることもあるし、形が変わることもあるよ。でも、花が大事にされることは変わらない」
「ママも?」
「ママも、花を大事にする」
「パパも?」
「もちろん」
健一が答えた。
花はようやく安心したように、ペンギンを抱きしめた。
健一が帰ったあと、美咲は玄関の鍵を閉め、そこに額をつけた。
思ったより動揺していた。
未練ではない。少なくとも、健一とやり直したい気持ちはない。
それでも、自分だけが過去に取り残され、健一は新しい時間へ進んでいるように感じたのだ。
その感覚が悔しかった。
自分は花を育て、働き、毎日必死に前へ進んでいる。誰かを好きになることだけが「前進」ではないはずなのに、胸のどこかでそう比べてしまった。
鏡を見ると、部屋着の肩に花の鼻水を拭いた跡が薄く残っていた。髪はひとつに束ねただけで、化粧も朝からしていない。健一が恋人を作ったという事実より、その事実を聞いた瞬間に「その人は若いのだろうか」と考えた自分の方が嫌だった。
離婚のときに傷ついたのは、愛情だけではない。女性としての自信まで一緒に持っていかれたのだと、美咲は改めて思った。
母親である自分。働く自分。花を守る自分。そのどれも必死に育ててきたのに、「誰かに愛される自分」だけは二年前から時間が止まったままだった。
別に、その時計を動かす必要などない。
そう思う。
そう思うのに、止まっていることを意識した瞬間から、静かな部屋の中で秒針のない時計の音が聞こえるような気がした。
美咲はマグカップを両手で包んだ。
もう誰かを好きになることなどないだろう。
そう考えると安心した。
好きにならなければ、失わない。
信じなければ、裏切られない。
その考えが、自分を守っているのか、閉じ込めているのか。
今の美咲には、まだわからなかった。
それでも朝になれば、また花の朝食を作る。その繰り返しだけは、美咲を現実へ戻してくれた。
そして、次の日も同じように。
夜明け前、目覚ましより先に目を覚ました美咲は、しばらく暗い天井を見ていた。隣の部屋から花の寝息が聞こえる。やがて起き上がり、台所の灯りをつけた。昨日と同じ朝が始まる。その「同じ」が、今はまだ必要だった。




