第一部 港のこだま 第一章 一日の形
夜明け前の静けさが、神戸市灘区の小さなアパートを満たしていた。
高橋美咲は台所の照明だけを点け、五歳になる娘、花の弁当を作っていた。卵焼きは少し甘く。ブロッコリーは房を小さく。ウインナーには包丁で切れ目を入れ、足が八本に見えるようにする。最後に海苔で目をつけようとして、ピンセットから小さな黒い丸が落ちた。
「……もう」
声に出すほどのことではない。けれど、美咲は拾い上げて作り直した。
きれいに並んだ弁当箱を眺めると、胸の奥のざわつきがほんの少しだけ静まる。
家賃。電気代。幼稚園の延長保育料。来週引き落とされる保険料。今月は花の靴も買い替えなければならない。数字は目を閉じても追いかけてくる。それでも、この小さな箱の中だけは、自分の手で形を整えられた。
冷蔵庫の扉に貼ったカレンダーには、赤い丸が三つあった。
一つは給料日。一つは幼稚園の遠足。そしてもう一つは、健一が花に会う予定の日だった。
美咲はその赤い丸から目を逸らした。
「ママ、おはよう」
振り向くと、寝癖で髪をふくらませた花が、毛布を肩に巻いたまま立っていた。
「おはよう。まだ六時半だよ。もう少し寝ててもよかったのに」
「おなかすいた」
「じゃあ顔を洗ってきて。パン焼くから」
花は「はーい」と返事をしたものの、洗面所へ行く途中で立ち止まり、冷蔵庫のカレンダーを見上げた。
「こんどの日ようび、パパ?」
美咲の手が止まった。
「うん。そうだよ」
「動物園いくって」
「そうなんだ。楽しみだね」
できるだけ自然に答えたつもりだった。
花はうれしそうに頷き、今度こそ洗面所へ駆けていった。
離婚して二年。健一は月に一度か二度、花と会っている。養育費も、遅れることはあるが払っていた。美咲はそのことを、彼の免罪符にするつもりはなかったし、だからといって父親と娘の関係まで壊したいとも思わなかった。
その境界線を引くことが、いつも難しかった。
健一に裏切られた夜のことを、美咲はまだ鮮明に覚えている。
けれど花にとっての健一は、スマートフォンの画面に甘い言葉を並べていた男ではない。肩車をしてくれる人であり、誕生日に大きなクマのぬいぐるみを買ってくれた人であり、ときどき約束の時間に遅れてくるけれど、それでも「パパ」と呼ぶ相手なのだ。
美咲はその二つを、混ぜないようにしてきた。
少なくとも、そうしようとしてきた。
朝食を終え、花を急かしながら髪を結び、忘れ物がないかを三度確認する。家を出る頃には、東の空が明るくなっていた。
「今日、ママおむかえ早い?」
「今日は五時半くらいかな」
「もっと早いのがいい」
「ごめんね。なるべく急ぐ」
幼稚園の門の前で、花は美咲の手を握ったまま離さなかった。
担任の先生が「花ちゃん、おはよう」と声をかけると、ようやく指が一本ずつほどけていく。
「ママ」
「なに?」
「おしごと、がんばってね」
子どもに励まされると、胸が痛む。
美咲は笑って、「花もね」と答えた。
駅までの坂道を小走りで下りながら、スマートフォンで残高を確認した。数字を見て、頭の中で今月残りの日数を割る。昼食代を少し削れば、遠足代は何とかなる。靴は来月でもいいかもしれない。ただ、つま先が当たると言っていた。
勤務先は三宮にある小さな輸入雑貨会社だった。美咲は週五日のパート事務として、受注入力や電話対応、請求書の整理をしている。
正社員になりたいと思わない日はなかった。
けれど、求人票に「残業あり」「土曜出勤あり」の文字を見つけるたび、応募ボタンを押す指が止まった。花が熱を出せば迎えに行くのは自分だ。幼稚園の行事もある。実家は岡山で、母は膝を悪くしている。頼りたくても頼れない。
「高橋さん、この伝票、午前中にお願い」
出勤して十分もしないうちに、営業の男性が束を机に置いた。
「はい」
「あと、今日二人休みだから電話も多めに取ってくれる?」
「わかりました」
美咲は笑顔で受け取った。
仕事そのものは嫌いではない。数字を揃え、書類を整え、問題を一つずつ片づけていく作業は性に合っていた。けれど、どれだけ任されることが増えても、契約書に書かれた時給は変わらない。
昼休み、同僚の村上由紀がコンビニのサンドイッチを持って向かいの席に座った。
「またおにぎり一個?」
「朝、卵焼きの端っこ食べたから」
「それ昼ごはんじゃないでしょ」
由紀は呆れたように言い、自分の唐揚げを一つ、美咲の弁当箱の蓋に置いた。
「いいって」
「返すなら今度コーヒーで」
「高くつくなあ」
二人で小さく笑った。
由紀は美咲が離婚していることも、花を一人で育てていることも知っている。必要以上に同情せず、けれど何も見ていないふりもしない。その距離感がありがたかった。
「そういえばさ、高橋さん。経理の資格とか取らないの?」
「急にどうしたの」
「昨日、部長が言ってた。来年、経理補助を一人増やすかもって。簿記持ってる人がいいらしいよ」
美咲は箸を止めた。
「私、三級しかない」
「二級取れば?」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないけど。高橋さん、こういうの得意じゃん」
由紀は伝票の束を顎で示した。
「でも時間が……」
「はいはい。時間とお金と子どもね」
図星を刺され、美咲は黙った。
「別に今すぐじゃなくていいけどさ。最初から無理って決めなくてもいいんじゃない?」
由紀はそう言って唐揚げを口に運んだ。
美咲は何も答えなかった。
「無理」と決めていることが、いつの間にか増えていた。
午後の始業までまだ十分あった。由紀が給湯室へ立ったあと、美咲はスマートフォンを開き、何となく「簿記二級 通信講座」と検索した。料金を見て、すぐ画面を閉じる。教材費だけなら払えない額ではない。だが、試験までの勉強時間をどこから持ってくるのか。夜、花を寝かしつけたあとには洗濯物が待っている。朝は弁当。休日は買い物と掃除と、花が「公園に行きたい」と言う。
半年前、正社員の面接を受けた日のことを思い出した。
面接官は感じのいい女性だった。これまでの事務経験を丁寧に聞いてくれ、パソコン操作にも問題がないと言ってくれた。最後に「小さいお子さんがいらっしゃるんですね」と履歴書に目を落とした。
「急なお休みの場合、どなたか代わりにお迎えへ行ける方はいらっしゃいますか」
質問そのものは当然だと、美咲にもわかっていた。会社だって人を雇う以上、勤務できるか確認しなければならない。
「基本的には私が対応します。病児保育も登録しています」
「ご実家はお近くですか」
「いいえ」
「お父さまは?」
一瞬だけ意味がわからなかった。
「子どもの父親、という意味でしたら、離婚しています」
面接官は「ああ、失礼しました」と言い、それ以上は聞かなかった。
不採用のメールが届いたのは三日後だった。理由は書かれていなかった。子どものせいだったと決めつける根拠はない。もっと経験のある応募者がいたのかもしれない。単に受け答えが悪かったのかもしれない。
けれど美咲の中には、「母親である自分は、最初から何かが欠けた労働者なのだ」という感覚だけが残った。
同じ感覚は、離婚後のさまざまな場面で顔を出した。賃貸契約の審査結果を待つとき。幼稚園の保護者会で夫婦そろって座る家族に囲まれたとき。休日のフードコートで、隣の席の父親が子どもの口を拭いているのを見たとき。
誰も美咲を責めていない。それなのに、自分だけが小さな欠陥を胸にぶら下げて歩いているように感じる。
「高橋さん、どうしたの。難しい顔して」
戻ってきた由紀がコーヒーを置いた。
「資格のこと、考えてた」
「お、前向き」
「料金見て、後ろ向きになった」
「早いな」
由紀が笑う。
「でもさ、会社の制度とか、市の支援とか、一回調べてみたら? 使えるものがあるかもしれないし」
「制度って、調べるだけで疲れるんだよね。条件がいっぱいあって」
「それはわかる」
美咲はスマートフォンを伏せた。
「人に助けてもらうの、苦手なんだと思う」
「制度は人じゃないでしょ」
「そういうことじゃなくて」
言いかけてやめた。
助けを受けると、自分の弱さを認めることになる気がする。そんな理屈の合わない感情を、どう説明すればいいかわからなかった。
由紀は追及せず、「必要なら一緒に探すよ」とだけ言った。
その言葉に礼を言いながら、美咲はまた居心地が悪くなった。
ありがたいのに、居心地が悪い。
その二つが同時に存在することを、美咲はまだうまく扱えずにいた。
デスクへ戻る途中、窓の外に目をやると、秋の空が高かった。ビルの隙間から、山の斜面に並ぶ家々が見える。神戸では海と山が近い。少し歩けば景色が変わり、坂を上れば遠くまで見渡せる。それなのに、美咲の毎日は同じ細い道を往復しているようだった。
朝、幼稚園。会社。スーパー。家。
たまに病院。月に一度の面会の受け渡し。
以前はそれを「安定」と呼ぼうとしていた。花を守るために必要な形だと思っていた。実際、それで二年間を乗り切ってきた。けれど、由紀に資格の話をされただけで胸がざわついたのは、自分のどこかが変化を望んでいるからなのかもしれない。
そう考えた瞬間、美咲は自分で自分をたしなめた。
欲張ってはいけない。まずは今日を無事に終える。それで十分だ。
そうやって一日を小さく区切る方法を、美咲は離婚後に覚えた。明日の不安を今日の机にまで持ち込めば、何も手につかなくなる。だから、目の前の伝票を一枚ずつ処理する。目の前の夕食を作る。目の前の子どもの話を聞く。
人生を立て直すというのは、大きな決断ではなく、その繰り返しなのだと信じていた。
少なくとも、その日の午後までは。
午後四時過ぎ、幼稚園から電話があった。
花が少し熱っぽいという。
「三十七度八分です。元気はあるんですけど、念のため早めにお迎えをお願いできますか」
「すぐ行きます」
受話器を置いた瞬間、周囲の音が大きくなったように感じた。
まだ終わっていない入力がある。今日は二人休みだ。しかも月末前で忙しい。
「どうしたの?」
由紀が顔を上げた。
「花が熱。迎え行かなきゃ」
「行きなよ。こっちやっとくから」
「でも」
「でも禁止」
美咲は上司に事情を話した。
上司は「仕方ないね」と言った。怒鳴られたわけでも、嫌味を言われたわけでもない。ただ、その一言の中にある小さな諦めを、美咲は勝手に聞き取ってしまう。
だから正社員になれない。
だから責任ある仕事を任せてもらえない。
誰もそう言っていないのに、頭の中で自分に言う。
電車の中で、健一に連絡しようか一瞬迷った。
今日は彼の担当日ではない。そもそも平日の夕方に動ける仕事ではないはずだ。連絡したところで何になる。
それでも、花は二人の子どもだ。
メッセージ欄を開いて、閉じた。
幼稚園に着くと、花は保健室のベッドで横になっていた。美咲を見るなり、安心したように唇をゆるめる。
「ママ、おそかった」
「ごめん、ごめん。頑張って来たよ」
額に触れると、確かに熱い。
「おうち帰ろう」
花を背負い、荷物を肩にかけ、坂道を上った。
五歳児はもう軽くない。背中で花の息が規則正しくなり、眠ったのだとわかった。
美咲は立ち止まらなかった。
家に着いて花を寝かせ、冷蔵庫から経口補水液を出し、夕食を雑炊に変更する。その間にも会社から一件だけ確認のメッセージが来た。返信してから、洗濯機を回す。
十八時を過ぎた頃、スマートフォンが鳴った。
健一だった。
「もしもし」
『花、熱出したって?』
美咲は眉を寄せた。
「なんで知ってるの」
『園の連絡アプリ、俺も登録してるだろ』
「ああ……そうだった」
『大丈夫か?』
「今は寝てる。三十八度ちょっと」
『病院は?』
「明日の朝まで続くようなら連れていく」
短い沈黙があった。
『何かいるものあるか』
その言葉に、美咲の胸の中で何かが硬くなる。
別れてからも、健一はときどきこういう言い方をした。悪気がないことはわかっている。それでも「俺が助けてやる」と聞こえてしまう自分がいた。
「大丈夫。こっちでできるから」
『美咲』
「なに」
『全部、意地張らなくていいだろ。花のことなんだから』
熱くなりかけた言葉を、美咲は飲み込んだ。
花のことだから。
それは正しい。
「じゃあ、明日の朝まだ熱があったら連絡する」
『わかった』
電話を切ると、どっと疲れた。
美咲は自分が、助けを拒む癖を身につけていることに気づいていた。
健一に対してだけではない。由紀が仕事を代わると言えば申し訳なくなり、母が「少しならお金を送る」と言えば断る。誰かに頼った瞬間、自分の足場が崩れるような気がした。
離婚を決めたとき、美咲は一人で立つと誓った。
その「一人で」が、いつの間にか「誰にも支えられてはいけない」に変わっていた。
「ママ」
寝室から花の声がした。
美咲はすぐに立ち上がった。
「ここにいるよ」
「おみず」
「はいはい」
コップを持って戻ると、花は半分眠った顔で水を飲み、それから美咲の袖をつかんだ。
「ママもねる?」
「うん。今日は一緒に寝ようか」
布団に入ると、花はすぐ美咲の腕に頬をつけた。
「ママ」
「ん?」
「パパのおうちには、ママいないね」
美咲は暗闇の中で目を開いた。
「そうだね」
「なんで?」
何度か聞かれたことのある質問だった。
そのたびに美咲は、五歳の子どもに渡せる大きさに答えを切り分けてきた。
「ママとパパは、一緒のおうちに住むのをやめたの。でも、花のママとパパなのは変わらないよ」
「けんかしたから?」
「……うん。うまく仲良くできなくなったの」
「また仲良くなったら、一緒に住む?」
胸の奥に、細い針を刺されたようだった。
「それはないかな」
「そっか」
花は驚くほどあっさり言い、目を閉じた。
けれど、美咲は眠れなかった。
窓のカーテンの隙間から、遠くの光が見えた。
神戸港の灯りだった。
海に沿って並ぶ光は、夜になるといつも美しかった。観光客なら写真を撮るのだろう。恋人たちは肩を寄せ合うのだろう。
美咲にとっては、別の世界の光だった。
仕事の帰りにスーパーへ寄り、値引きされた肉を選び、子どもの体温を測り、翌日の弁当のことを考える自分とは無縁の場所にある光。
けれど今日は、花の質問が耳に残っていた。
家族は、一度壊れたら終わりなのだろうか。
終わったものを、別の形に作り直すことはできるのだろうか。
美咲は首を振った。
そんなことを考える余裕はない。
明日の朝、熱が下がっていなければ病院へ行く。
会社には休みを連絡する。
遠足代を払う。
靴を買う。
考えるべきことは、いくらでもある。
それでも眠りに落ちる直前、美咲はもう一度だけ窓の外を見た。
遠い港の灯りが、暗い海の上で瞬いていた。
手の届かない場所から、何かを呼んでいるように。




