第四部 安息の港 第十章 潮の満ち引きの一年
春が来た。
直人との関係を続けると決めてからも、何かが劇的に変わったわけではなかった。
美咲は朝、花の弁当を作り、会社へ行き、帰宅して夕食を作る。夜は簿記の問題集を開く。直人は大阪の現場へ通い、忙しい日は短いメッセージだけで終わった。
ただ、以前と違うことがあった。
〈今日は二十二時までかかりそうです。電話できません〉
〈了解。無理しないで〉
予定が変わるとき、直人は先に伝えた。
そして美咲も、「仕方ない」と我慢するだけではなく、嫌なときは嫌だと言うようにした。
〈土曜まで仕事になりそうです〉
〈日曜に花と動物園行く約束、忘れてない?〉
〈忘れてません。土曜の仕事は引き継ぎます〉
〈無理なら予定を変えてもいい。でも今日中に決めて〉
〈わかりました〉
完璧ではない。
しかし、曖昧に待たされることは減った。
四月、三人で王子動物園へ行った。
花は小学校へ入学したばかりで、黄色い帽子がまだ大きく見えた。
「小学生になったから、地図見る」
園内マップを握り、自分が案内すると張り切る。
「まず、ゾウ!」
「そっちは反対方向じゃない?」
直人が言う。
「地図見るって言ったでしょ」
「なおと、うるさい」
花が真剣に地図を回す。
美咲は笑った。
以前の直人なら、すぐ正しい道を教えただろう。
今は、花が自分で気づくまで待っている。
十分後、三人はなぜか遊園地の前に着いた。
「ほら」
直人が言いかける。
美咲が肘で小さくつついた。
「……ゾウ、遠いね」
直人は言い直した。
「なおと、地図見て」
「僕が?」
「わかんない」
花が素直に地図を渡した。
頼るというのは、こういうことなのかもしれないと美咲は思った。
自分でやってみて、無理なら渡す。最初から奪われるのでも、最後まで一人で抱えるのでもない。
五月、美咲は簿記二級の試験を受けた。
試験当日の朝、直人から届いたのは長い励ましではなく、たった一文だった。
〈終わったらケーキ食べましょう〉
花からは手書きの紙を渡された。
〈ママ がんばれ わからなくてもなかない〉
「最後の一言なに」
「花、算数わかんなくて泣いたから」
「ママも泣くと思った?」
「うん」
美咲は笑い、その紙を鞄に入れた。
試験から一か月ほど経ったある日、商工会議所から封書が届いた。
結果は合格だった。
合格通知を見た瞬間、美咲は一人で声を上げた。
直人ではなく、まず由紀に電話した。次に母。そして花が学校から帰るのを待って、一緒に喜んだ。
最後に直人へ送った。
〈受かりました〉
すぐ電話が鳴った。
『おめでとう!』
「ありがとう」
『すごい。ほんとに』
「うん。私、頑張った」
自然にそう言えた。
『はい。高橋さんが頑張った』
直人は「僕が勧めた」とは言わなかった。
それが嬉しかった。
六月、美咲は社内の経理補助の契約社員枠へ応募した。
面接では、子どもの急病時の対応も聞かれた。
以前のように「申し訳ない条件」として話さず、病児保育の登録、健一との分担、地域サポートの利用経験を具体的に説明した。
「できないこともあります。でも、できる方法は準備しています」
自分の口から出た言葉に、美咲自身が驚いた。
結果は採用だった。
給与は劇的に上がるわけではない。責任も増える。それでも、時給ではなく月給になり、賞与の対象にもなる。
初日の夜、直人と花が小さな花束を持ってきた。
「おめでとう」
「ありがとう」
「これ、花が選んだ」
「黄色がよかったの」
花束は黄色いガーベラばかりだった。
美咲は受け取りながら、胸がいっぱいになった。
恋愛が先にあって人生が変わったのではない。
自分で始めた勉強が仕事につながり、その途中に直人がいた。
その順番が、美咲には大切だった。
夏、直人の友人たちとバーベキューをした。
最初、美咲は緊張した。
「年上で子持ちの恋人」として値踏みされるのではないかという古い不安が出てきた。
だが実際には、友人たちは直人の仕事癖を笑うことに忙しかった。
「伊藤、最近ちゃんと休んでんの?」
「休んでるよ」
「昔、キャンプ場まで図面持ってきた男が?」
美咲は直人を見る。
「そんなことしたんですか」
「昔です」
「三年前だろ」
「昔です」
花が笑う。
「なおと、おしごとばっか」
「花ちゃんまで」
美咲も笑った。
直人の過去を知る人たちの中にいると、彼が美咲のために作られた理想の人物ではなく、長い時間を生きてきた一人の人間だと感じられた。
その夜、帰宅してから美咲は言った。
「友達に会えてよかった」
「変なこと聞かされました?」
「だいぶ」
「忘れてください」
「無理です」
二人で笑った。
順調なことばかりではなかった。
八月、直人が花の学習机を買おうとしたことがあった。
家具店で、花が小さな机を気に入ったのがきっかけだった。
「入学祝い、まだちゃんと渡してなかったし」
「いらない」
美咲は即答した。
「でも、今使ってる机、小さいでしょう」
「買うなら私が買う」
「三人で使うものでもないし、花ちゃんへのプレゼントですよ」
「だから嫌なの」
直人の表情が曇る。
「何が?」
「高すぎる」
「値段の問題?」
「値段も。立場も」
美咲は店の外へ出た。
直人が追ってくる。
「また僕、踏み込みました?」
「少し」
「でも、何でも駄目って言われると」
直人が言いかけ、口を閉じた。
「言って」
「……寂しいです」
美咲は驚いた。
「花ちゃんに何かしてあげたいって思うのも、そんなに駄目ですか」
「駄目じゃない」
「じゃあ」
「私は、直人が何か高いものを買うことで、父親みたいな役割を取ろうとしてるのが怖い」
「そんなつもりは」
直人はそこで止まった。
「ないって言い切れないかも」
美咲も口をつぐんだ。
「ごめん。私も全部拒否してる」
結局、机は買わなかった。
代わりに三人で花の勉強スペースを整えた。直人は古いカラーボックスに板を渡す簡単な棚を作り、美咲が材料費を半分出した。
「机より安い」
花は少し不満そうだったが、完成するとすぐ鉛筆を並べた。
「これ、なおと作った」
「ママもお金出したよ」
「花もネジ渡した」
「じゃあ三人で作った」
その結論が一番よかった。
八月の終わりには、直人の両親とも会った。
直人から話を切り出されたとき、美咲はかなり迷った。恋人の親に会うということは、それまでの「今を大事にする」という距離から、また一歩先へ進むように感じたからだ。
「嫌なら、まだいいです」
直人はそう言った。
「ご両親は、私のこと知ってるの?」
「母はだいたい。父は……僕が話しても半分しか聞いてないので」
「それ、会って大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん」
「あ」
二人で笑った。
結局、昼食だけという約束で会うことにした。
直人の実家は西宮の住宅街にあった。母の恵美子は小柄でよく笑う人で、花が持っていった手土産を大げさなくらい喜んだ。
「直人が女の人を連れてくるなんて何年ぶりかしら」
「母さん」
「本当のことでしょ」
美咲は緊張しながらも笑った。
問題は父親だった。
十二時の約束だったのに、十二時半になっても帰ってこない。直人が電話をすると、「現場でちょっと確認が入った」と返ってきた。
直人の顔が目に見えて硬くなった。
「またか」
恵美子がため息をつく。
「仕事なら仕方ないでしょう」
美咲が言うと、直人は首を振った。
「今日のこと、一か月前から言ってたんです」
その声に、子どもの頃の悔しさが混じっているように聞こえた。
父親の浩一が帰ってきたのは、一時を過ぎてからだった。
「悪い悪い。抜けられなくて」
そう言いながらネクタイを緩める姿を見て、美咲は直人と似ていると思った。顔立ちではなく、仕事から戻っても頭の半分がまだ現場にあるようなところが。
「初めまして。直人の父です」
浩一は美咲と花に丁寧に頭を下げた。悪い人には見えない。
だからこそ、直人が複雑な顔をする理由がわかった。
食事中、浩一の電話が二度鳴った。二度目に立とうとしたとき、直人が言った。
「今日は切ってくれない?」
「緊急かもしれないだろ」
「だったら確認して、緊急じゃなかったら切って」
部屋が静かになった。
浩一は驚いた顔をしたが、画面を見て「明日でいいな」と電話を伏せた。
帰り道、直人は気まずそうに言った。
「すみません。変なところ見せて」
「変じゃないよ」
「僕、父親に似てるでしょう」
美咲は少し迷った。
「似てる」
「やっぱり」
「でも、同じじゃない」
直人がこちらを見る。
「今日、言ったじゃない。電話切ってって。昔嫌だったことを、嫌だったままにしないで話した」
直人はしばらく黙った。
「父親も、悪気ないんです」
「わかる」
「家族を食べさせるために働いてた。僕も大学まで出してもらった。それを知ってるから、怒ると自分がわがままみたいに感じる」
「感謝と寂しかったことは、両方あっていいんじゃない?」
美咲は言った。
自分にも同じことが言える。健一との過去には幸せだった時間も、裏切られた痛みもある。どちらかを消さなくてもいい。
「高橋さん、最近たまに先生みたいです」
「直人に言われたくない」
二人で笑った。
その日の夜、直人からメッセージが届いた。
〈父親を見て、自分も気をつけないとって改めて思いました〉
美咲は〈気をつけるだけじゃなく、またやったら言います〉と返した。
〈お願いします〉
以前なら「変わった証拠」を求めただろう。
今は、変わり続けようとする姿を見ればいいと思えた。
九月、健一から真理子を花に紹介したいと改めて相談があった。
今度は美咲も、前ほど身構えなかった。
「花に先に聞いて」
「わかった」
花は「会ってみたい」と言った。
面会の日、健一と真理子と花の三人で昼食を取り、夕方帰ってきた花は、真理子から教えてもらった折り紙を嬉しそうに見せた。
「ママも会いたい?」
「いつかね」
胸がまったく痛まないわけではなかった。
けれど、その痛みは以前とは違った。
自分が置き換えられる恐怖ではなく、花の世界が広がっていくことへの寂しさに近かった。
「真理子さん、やさしかった」
「よかったね」
美咲は心からそう言えた。
十月、花の小学校で初めての運動会があった。
健一も来た。真理子は遠慮して来なかった。
直人も、花に「来て」と言われていた。
ところが前夜、現場でトラブルが起きた。
〈明日の朝、確認に行くことになりました。九時半には終わる予定。でも開会には間に合わないかもしれない〉
美咲は画面を見た。
以前なら胸が冷えただろう。
〈花の徒競走は十時四十分。無理なら無理で朝までに教えて〉
〈わかりました〉
翌朝七時半。
〈十時には着けそう。もし延びたらすぐ連絡します〉
十時十三分、直人は校庭に現れた。
息を切らしてはいなかった。走って間に合わせるのではなく、引き継げるところを同僚に任せてきたという。
「間に合った!」
花が集合場所から直人を見つけ、大きく手を振った。
健一が隣で「よかったな」と言った。
直人は健一に頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
二人の間にはまだ少しぎこちなさがあったが、以前の刺々しさはなかった。
徒競走で花は四人中三番だった。
それでも全員が大声で応援した。
「花ー!」
美咲、健一、直人の声が重なった。
ゴールした花は誇らしげに笑った。
その光景を見ながら、美咲は思った。
家族の形は、一つにまとめなくてもいいのかもしれない。
健一は花の父親。直人は直人。真理子には真理子の場所ができていく。
美咲が全員の関係を一つの名前に押し込める必要はない。
冬、美咲は経理の仕事にも慣れ始めた。
忙しい月末には残業が必要な日も出てきた。
「今日、僕が花ちゃん迎えに行きましょうか」
直人に言われ、美咲は一瞬反射的に「大丈夫」と言いそうになった。
止まった。
「学校の学童に登録してる人じゃないと、急には無理」
「そっか」
「でも、夕食だけ買ってきてもらっていい?」
自分から頼んだ。
「もちろん」
「高いものじゃなくていいから」
「わかってます」
直人はスーパーの惣菜を買ってきた。
唐揚げとサラダと、花の好きなコーンスープ。
帰宅した美咲は、三人で買ってきた夕食を囲んだ。
「今日は作らなくていいの?」
花が聞く。
「いい日もあるの」
「なおとが買ったから?」
「そう」
「ママ、たすけてもらった?」
美咲は間を置いてから答えた。
「うん。今日は助けてもらった」
その言葉を口にしても、何も失わなかった。
自分の価値も、自立も。
直人は何も言わず、唐揚げを一つ口に入れた。
十一月には、直人から初めて「いつか一緒に暮らすこと」を話題にされた。
「今すぐじゃないです」
彼は最初に念を押した。
「ただ、もしこの先も続くなら、通うだけじゃなくなる日もあるのかなって」
美咲の胸はやはり緊張した。
以前なら、直人がまた完成形を作っていると反発しただろう。
「私は、花の小学校は変えたくない」
「うん」
「健一との面会もしやすい場所がいい」
「うん」
「それから、家賃を全部直人が払う形は嫌」
「まだ物件も見てないです」
「条件を言ってるの」
「はい」
直人は笑った。
「じゃあ僕も。仕事場へのアクセスは考えたい。あと、できれば机を置ける場所がほしい」
「家で仕事するの?」
「しすぎないための机です」
「意味わからない」
「仕事を持ち帰る場所を限定する」
「なるほど」
二人はそこで話を止めた。
不動産サイトも開かなかった。
未来について話しても、今日決めなくていい。
そのこと自体が、二人にとって新しい進み方だった。
春から冬まで、一年は潮のように満ちたり引いたりした。
近づく日があれば、距離が必要な日もあった。
喧嘩もした。予定も変わった。美咲が昔の傷に引き戻される夜も、直人が仕事へ逃げ込む週もあった。
それでも二人は、問題がないふりをすることをやめた。
美咲にとって、それは「幸せになった」という言葉より確かな変化だった。
幸せとは、嵐が二度と来ない港ではない。
荒れたら船をつなぎ直し、必要なら岸へ戻り、また出ることができる場所なのかもしれない。
その年の終わり、美咲は窓辺に立って港の灯りを見た。
花は隣の部屋で宿題をし、直人は床に座って壊れた鉛筆削りを分解している。
「それ、直せるの?」
「たぶん」
「たぶん禁止じゃなかった?」
「観覧車の安全性だけです」
花が笑う。
美咲も笑った。
以前なら、こういう何気ない夜こそ失うのが怖かった。
今も怖くないわけではない。
けれど、怖さだけで今日を小さくしないことを、美咲は覚え始めていた。
この一年で、美咲は「一人でできること」を増やした。同時に、「一人でやらなくていいこと」も少しずつ増えた。
どちらか一方だけが自立なのではない。選べることが、自立なのだと思えるようになった。
その変化は、資格証よりも、契約社員の辞令よりも、美咲の中で静かに重みを持っていた。
鉛筆削りは結局直らず、直人は翌朝「部品を買ってきます」と宣言した。花は「新しいの買った方が早い」と冷静だった。美咲は湯気の立つマグカップを両手で包み、そんな他愛のない会話が続くことを、以前ほど怖がらずに聞いていた。




