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港の灯りはあなたを呼んでいる  作者: 久遠 睦


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10/13

第四部 安息の港    第十章 潮の満ち引きの一年

春が来た。

 直人との関係を続けると決めてからも、何かが劇的に変わったわけではなかった。

 美咲は朝、花の弁当を作り、会社へ行き、帰宅して夕食を作る。夜は簿記の問題集を開く。直人は大阪の現場へ通い、忙しい日は短いメッセージだけで終わった。

 ただ、以前と違うことがあった。

〈今日は二十二時までかかりそうです。電話できません〉

〈了解。無理しないで〉

 予定が変わるとき、直人は先に伝えた。

 そして美咲も、「仕方ない」と我慢するだけではなく、嫌なときは嫌だと言うようにした。

〈土曜まで仕事になりそうです〉

〈日曜に花と動物園行く約束、忘れてない?〉

〈忘れてません。土曜の仕事は引き継ぎます〉

〈無理なら予定を変えてもいい。でも今日中に決めて〉

〈わかりました〉

 完璧ではない。

 しかし、曖昧に待たされることは減った。

 四月、三人で王子動物園へ行った。

 花は小学校へ入学したばかりで、黄色い帽子がまだ大きく見えた。

「小学生になったから、地図見る」

 園内マップを握り、自分が案内すると張り切る。

「まず、ゾウ!」

「そっちは反対方向じゃない?」

 直人が言う。

「地図見るって言ったでしょ」

「なおと、うるさい」

 花が真剣に地図を回す。

 美咲は笑った。

 以前の直人なら、すぐ正しい道を教えただろう。

 今は、花が自分で気づくまで待っている。

 十分後、三人はなぜか遊園地の前に着いた。

「ほら」

 直人が言いかける。

 美咲が肘で小さくつついた。

「……ゾウ、遠いね」

 直人は言い直した。

「なおと、地図見て」

「僕が?」

「わかんない」

 花が素直に地図を渡した。

 頼るというのは、こういうことなのかもしれないと美咲は思った。

 自分でやってみて、無理なら渡す。最初から奪われるのでも、最後まで一人で抱えるのでもない。

 五月、美咲は簿記二級の試験を受けた。

 試験当日の朝、直人から届いたのは長い励ましではなく、たった一文だった。

〈終わったらケーキ食べましょう〉

 花からは手書きの紙を渡された。

〈ママ がんばれ わからなくてもなかない〉

「最後の一言なに」

「花、算数わかんなくて泣いたから」

「ママも泣くと思った?」

「うん」

 美咲は笑い、その紙を鞄に入れた。

 試験から一か月ほど経ったある日、商工会議所から封書が届いた。

 結果は合格だった。

 合格通知を見た瞬間、美咲は一人で声を上げた。

 直人ではなく、まず由紀に電話した。次に母。そして花が学校から帰るのを待って、一緒に喜んだ。

 最後に直人へ送った。

〈受かりました〉

 すぐ電話が鳴った。

『おめでとう!』

「ありがとう」

『すごい。ほんとに』

「うん。私、頑張った」

 自然にそう言えた。

『はい。高橋さんが頑張った』

 直人は「僕が勧めた」とは言わなかった。

 それが嬉しかった。

 六月、美咲は社内の経理補助の契約社員枠へ応募した。

 面接では、子どもの急病時の対応も聞かれた。

 以前のように「申し訳ない条件」として話さず、病児保育の登録、健一との分担、地域サポートの利用経験を具体的に説明した。

「できないこともあります。でも、できる方法は準備しています」

 自分の口から出た言葉に、美咲自身が驚いた。

 結果は採用だった。

 給与は劇的に上がるわけではない。責任も増える。それでも、時給ではなく月給になり、賞与の対象にもなる。

 初日の夜、直人と花が小さな花束を持ってきた。

「おめでとう」

「ありがとう」

「これ、花が選んだ」

「黄色がよかったの」

 花束は黄色いガーベラばかりだった。

 美咲は受け取りながら、胸がいっぱいになった。

 恋愛が先にあって人生が変わったのではない。

 自分で始めた勉強が仕事につながり、その途中に直人がいた。

 その順番が、美咲には大切だった。

 夏、直人の友人たちとバーベキューをした。

 最初、美咲は緊張した。

 「年上で子持ちの恋人」として値踏みされるのではないかという古い不安が出てきた。

 だが実際には、友人たちは直人の仕事癖を笑うことに忙しかった。

「伊藤、最近ちゃんと休んでんの?」

「休んでるよ」

「昔、キャンプ場まで図面持ってきた男が?」

 美咲は直人を見る。

「そんなことしたんですか」

「昔です」

「三年前だろ」

「昔です」

 花が笑う。

「なおと、おしごとばっか」

「花ちゃんまで」

 美咲も笑った。

 直人の過去を知る人たちの中にいると、彼が美咲のために作られた理想の人物ではなく、長い時間を生きてきた一人の人間だと感じられた。

 その夜、帰宅してから美咲は言った。

「友達に会えてよかった」

「変なこと聞かされました?」

「だいぶ」

「忘れてください」

「無理です」

 二人で笑った。

 順調なことばかりではなかった。

 八月、直人が花の学習机を買おうとしたことがあった。

 家具店で、花が小さな机を気に入ったのがきっかけだった。

「入学祝い、まだちゃんと渡してなかったし」

「いらない」

 美咲は即答した。

「でも、今使ってる机、小さいでしょう」

「買うなら私が買う」

「三人で使うものでもないし、花ちゃんへのプレゼントですよ」

「だから嫌なの」

 直人の表情が曇る。

「何が?」

「高すぎる」

「値段の問題?」

「値段も。立場も」

 美咲は店の外へ出た。

 直人が追ってくる。

「また僕、踏み込みました?」

「少し」

「でも、何でも駄目って言われると」

 直人が言いかけ、口を閉じた。

「言って」

「……寂しいです」

 美咲は驚いた。

「花ちゃんに何かしてあげたいって思うのも、そんなに駄目ですか」

「駄目じゃない」

「じゃあ」

「私は、直人が何か高いものを買うことで、父親みたいな役割を取ろうとしてるのが怖い」

「そんなつもりは」

 直人はそこで止まった。

「ないって言い切れないかも」

 美咲も口をつぐんだ。

「ごめん。私も全部拒否してる」

 結局、机は買わなかった。

 代わりに三人で花の勉強スペースを整えた。直人は古いカラーボックスに板を渡す簡単な棚を作り、美咲が材料費を半分出した。

「机より安い」

 花は少し不満そうだったが、完成するとすぐ鉛筆を並べた。

「これ、なおと作った」

「ママもお金出したよ」

「花もネジ渡した」

「じゃあ三人で作った」

 その結論が一番よかった。

 八月の終わりには、直人の両親とも会った。

 直人から話を切り出されたとき、美咲はかなり迷った。恋人の親に会うということは、それまでの「今を大事にする」という距離から、また一歩先へ進むように感じたからだ。

「嫌なら、まだいいです」

 直人はそう言った。

「ご両親は、私のこと知ってるの?」

「母はだいたい。父は……僕が話しても半分しか聞いてないので」

「それ、会って大丈夫?」

「たぶん」

「たぶん」

「あ」

 二人で笑った。

 結局、昼食だけという約束で会うことにした。

 直人の実家は西宮の住宅街にあった。母の恵美子は小柄でよく笑う人で、花が持っていった手土産を大げさなくらい喜んだ。

「直人が女の人を連れてくるなんて何年ぶりかしら」

「母さん」

「本当のことでしょ」

 美咲は緊張しながらも笑った。

 問題は父親だった。

 十二時の約束だったのに、十二時半になっても帰ってこない。直人が電話をすると、「現場でちょっと確認が入った」と返ってきた。

 直人の顔が目に見えて硬くなった。

「またか」

 恵美子がため息をつく。

「仕事なら仕方ないでしょう」

 美咲が言うと、直人は首を振った。

「今日のこと、一か月前から言ってたんです」

 その声に、子どもの頃の悔しさが混じっているように聞こえた。

 父親の浩一が帰ってきたのは、一時を過ぎてからだった。

「悪い悪い。抜けられなくて」

 そう言いながらネクタイを緩める姿を見て、美咲は直人と似ていると思った。顔立ちではなく、仕事から戻っても頭の半分がまだ現場にあるようなところが。

「初めまして。直人の父です」

 浩一は美咲と花に丁寧に頭を下げた。悪い人には見えない。

 だからこそ、直人が複雑な顔をする理由がわかった。

 食事中、浩一の電話が二度鳴った。二度目に立とうとしたとき、直人が言った。

「今日は切ってくれない?」

「緊急かもしれないだろ」

「だったら確認して、緊急じゃなかったら切って」

 部屋が静かになった。

 浩一は驚いた顔をしたが、画面を見て「明日でいいな」と電話を伏せた。

 帰り道、直人は気まずそうに言った。

「すみません。変なところ見せて」

「変じゃないよ」

「僕、父親に似てるでしょう」

 美咲は少し迷った。

「似てる」

「やっぱり」

「でも、同じじゃない」

 直人がこちらを見る。

「今日、言ったじゃない。電話切ってって。昔嫌だったことを、嫌だったままにしないで話した」

 直人はしばらく黙った。

「父親も、悪気ないんです」

「わかる」

「家族を食べさせるために働いてた。僕も大学まで出してもらった。それを知ってるから、怒ると自分がわがままみたいに感じる」

「感謝と寂しかったことは、両方あっていいんじゃない?」

 美咲は言った。

 自分にも同じことが言える。健一との過去には幸せだった時間も、裏切られた痛みもある。どちらかを消さなくてもいい。

「高橋さん、最近たまに先生みたいです」

「直人に言われたくない」

 二人で笑った。

 その日の夜、直人からメッセージが届いた。

〈父親を見て、自分も気をつけないとって改めて思いました〉

 美咲は〈気をつけるだけじゃなく、またやったら言います〉と返した。

〈お願いします〉

 以前なら「変わった証拠」を求めただろう。

 今は、変わり続けようとする姿を見ればいいと思えた。

 九月、健一から真理子を花に紹介したいと改めて相談があった。

 今度は美咲も、前ほど身構えなかった。

「花に先に聞いて」

「わかった」

 花は「会ってみたい」と言った。

 面会の日、健一と真理子と花の三人で昼食を取り、夕方帰ってきた花は、真理子から教えてもらった折り紙を嬉しそうに見せた。

「ママも会いたい?」

「いつかね」

 胸がまったく痛まないわけではなかった。

 けれど、その痛みは以前とは違った。

 自分が置き換えられる恐怖ではなく、花の世界が広がっていくことへの寂しさに近かった。

「真理子さん、やさしかった」

「よかったね」

 美咲は心からそう言えた。

 十月、花の小学校で初めての運動会があった。

 健一も来た。真理子は遠慮して来なかった。

 直人も、花に「来て」と言われていた。

 ところが前夜、現場でトラブルが起きた。

〈明日の朝、確認に行くことになりました。九時半には終わる予定。でも開会には間に合わないかもしれない〉

 美咲は画面を見た。

 以前なら胸が冷えただろう。

〈花の徒競走は十時四十分。無理なら無理で朝までに教えて〉

〈わかりました〉

 翌朝七時半。

〈十時には着けそう。もし延びたらすぐ連絡します〉

 十時十三分、直人は校庭に現れた。

 息を切らしてはいなかった。走って間に合わせるのではなく、引き継げるところを同僚に任せてきたという。

「間に合った!」

 花が集合場所から直人を見つけ、大きく手を振った。

 健一が隣で「よかったな」と言った。

 直人は健一に頭を下げた。

「おはようございます」

「おはよう」

 二人の間にはまだ少しぎこちなさがあったが、以前の刺々しさはなかった。

 徒競走で花は四人中三番だった。

 それでも全員が大声で応援した。

「花ー!」

 美咲、健一、直人の声が重なった。

 ゴールした花は誇らしげに笑った。

 その光景を見ながら、美咲は思った。

 家族の形は、一つにまとめなくてもいいのかもしれない。

 健一は花の父親。直人は直人。真理子には真理子の場所ができていく。

 美咲が全員の関係を一つの名前に押し込める必要はない。

 冬、美咲は経理の仕事にも慣れ始めた。

 忙しい月末には残業が必要な日も出てきた。

「今日、僕が花ちゃん迎えに行きましょうか」

 直人に言われ、美咲は一瞬反射的に「大丈夫」と言いそうになった。

 止まった。

「学校の学童に登録してる人じゃないと、急には無理」

「そっか」

「でも、夕食だけ買ってきてもらっていい?」

 自分から頼んだ。

「もちろん」

「高いものじゃなくていいから」

「わかってます」

 直人はスーパーの惣菜を買ってきた。

 唐揚げとサラダと、花の好きなコーンスープ。

 帰宅した美咲は、三人で買ってきた夕食を囲んだ。

「今日は作らなくていいの?」

 花が聞く。

「いい日もあるの」

「なおとが買ったから?」

「そう」

「ママ、たすけてもらった?」

 美咲は間を置いてから答えた。

「うん。今日は助けてもらった」

 その言葉を口にしても、何も失わなかった。

 自分の価値も、自立も。

 直人は何も言わず、唐揚げを一つ口に入れた。

 十一月には、直人から初めて「いつか一緒に暮らすこと」を話題にされた。

「今すぐじゃないです」

 彼は最初に念を押した。

「ただ、もしこの先も続くなら、通うだけじゃなくなる日もあるのかなって」

 美咲の胸はやはり緊張した。

 以前なら、直人がまた完成形を作っていると反発しただろう。

「私は、花の小学校は変えたくない」

「うん」

「健一との面会もしやすい場所がいい」

「うん」

「それから、家賃を全部直人が払う形は嫌」

「まだ物件も見てないです」

「条件を言ってるの」

「はい」

 直人は笑った。

「じゃあ僕も。仕事場へのアクセスは考えたい。あと、できれば机を置ける場所がほしい」

「家で仕事するの?」

「しすぎないための机です」

「意味わからない」

「仕事を持ち帰る場所を限定する」

「なるほど」

 二人はそこで話を止めた。

 不動産サイトも開かなかった。

 未来について話しても、今日決めなくていい。

 そのこと自体が、二人にとって新しい進み方だった。

 春から冬まで、一年は潮のように満ちたり引いたりした。

 近づく日があれば、距離が必要な日もあった。

 喧嘩もした。予定も変わった。美咲が昔の傷に引き戻される夜も、直人が仕事へ逃げ込む週もあった。

 それでも二人は、問題がないふりをすることをやめた。

 美咲にとって、それは「幸せになった」という言葉より確かな変化だった。

 幸せとは、嵐が二度と来ない港ではない。

 荒れたら船をつなぎ直し、必要なら岸へ戻り、また出ることができる場所なのかもしれない。

 その年の終わり、美咲は窓辺に立って港の灯りを見た。

 花は隣の部屋で宿題をし、直人は床に座って壊れた鉛筆削りを分解している。

「それ、直せるの?」

「たぶん」

「たぶん禁止じゃなかった?」

「観覧車の安全性だけです」

 花が笑う。

 美咲も笑った。

 以前なら、こういう何気ない夜こそ失うのが怖かった。

 今も怖くないわけではない。

 けれど、怖さだけで今日を小さくしないことを、美咲は覚え始めていた。

 この一年で、美咲は「一人でできること」を増やした。同時に、「一人でやらなくていいこと」も少しずつ増えた。

 どちらか一方だけが自立なのではない。選べることが、自立なのだと思えるようになった。

 その変化は、資格証よりも、契約社員の辞令よりも、美咲の中で静かに重みを持っていた。

 鉛筆削りは結局直らず、直人は翌朝「部品を買ってきます」と宣言した。花は「新しいの買った方が早い」と冷静だった。美咲は湯気の立つマグカップを両手で包み、そんな他愛のない会話が続くことを、以前ほど怖がらずに聞いていた。


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