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港の灯りはあなたを呼んでいる  作者: 久遠 睦


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第十一章 頂での誓い

直人と正式に付き合い始めてから、もうすぐ二年が経とうとしていた。

 その頃には、「結婚」という言葉は二人のあいだで禁句ではなくなっていた。

 最初に口にしたのは、意外にも美咲だった。

 ある日、花が寝たあと、二人で食器を片づけていたときのことだった。

「もし、結婚するとしたら」

 美咲がそう言うと、直人の手から皿が滑りそうになった。

「ちょっと待って」

「割らないで」

「今、結婚って言いました?」

「仮定の話」

「はい」

 直人は妙に姿勢を正した。

「そんな緊張しなくていいから」

「しますよ」

 美咲は食器を拭きながら続けた。

「花の名字、どうするんだろうって思って」

 直人の表情が真面目になった。

「そこから?」

「そこ大事でしょ」

「大事です」

 美咲は、結婚をロマンチックな未来だけで考えられなかった。

 戸籍、名字、住まい、学校、健一との面会、仕事。現実には決めることがいくつもある。

「私は、花が急に名字変わるの嫌なら、無理に変えたくない」

「うん」

「健一との関係も変えたくない」

「うん」

「直人が父親になる、って説明もしたくない」

 直人は頷いた。

「僕も、その言い方は違うと思う」

「でも、法律上は考えることあるよね」

「ありますね」

「調べる?」

 直人が一瞬嬉しそうな顔をした。

「一緒に」

 美咲が先に言う。

「はい」

 二人は笑った。

 後日、必要な制度や手続きについて、それぞれ別々に調べて情報を持ち寄った。

 どちらか一人が答えを用意しない。

 その方法が二人には合っていた。

 住まいについても同じだった。

 美咲と花が今暮らす部屋は手狭だったが、学校から遠くない。直人の部屋は一人暮らし向けで、三人では住めない。

「垂水とか、どうですか」

 直人が不動産サイトの地図を見せた。

「遠くなる」

「でも海見えるところ多い」

「私、海が見えれば何でもいいわけじゃないから」

「でも、海が見えると少し機嫌よくなるでしょう」

「そういう問題じゃないの」

「はい。条件を先に決めましょう」

 美咲は笑った。

 結局、そのときは物件探しを始めなかった。

 花の学年が変わる時期まで待つことにした。

 未来の話をしても、すぐ決めない。

 以前の美咲なら、不確定な状態が不安だった。

 今は、「まだ決めない」という選択もできるようになっていた。

 一方、直人の仕事にも大きな話が来ていた。

 大阪の改修プロジェクトが評価され、チームリーダーの候補に名前が挙がったのだ。

「おめでとう」

 美咲は素直に言った。

「まだ決まってないです」

「でも、やりたいんでしょ」

「やりたい」

 直人は笑った。

「前なら、最初に高橋さんの顔色見てたと思います」

「今は?」

「やりたいって先に言う。そのうえで、生活がどうなるか相談する」

「成長しましたね」

「先生、ありがとうございます」

「誰が先生」

 二人で笑った。

 昇進すれば責任は増える。帰宅が遅い日もあるだろう。

 美咲も経理の仕事が忙しくなっていた。

「もし一緒に暮らしたとしても、家のことは私が全部やらないからね」

「はい」

「仕事忙しいを免罪符にしない」

「はい」

「私も自分だけで抱えない」

「それが一番怪しい」

「何」

「いえ」

 こういう話をしていると、不思議に思うことがあった。

 かつて美咲が結婚に求めていたのは「ずっと好きでいること」や「裏切らないこと」だった。

 もちろん今も大切だ。

 けれど、永遠を一度の言葉で保証することはできないと知ってしまった。

 今、美咲が求めているのは、変化したときに話せることだった。

 仕事が変わる。気持ちが揺れる。花が成長する。健一にも真理子にも生活がある。

 そのたびに決め直せる相手であること。

 それなら、信じられる気がした。

 花にも、少しずつ話した。

「ママと直人、いつか一緒のおうちに住むかもしれない」

 夕食後、美咲が言うと、花は目を輝かせた。

「いつ?」

「まだ決まってない」

「明日?」

「だから決まってないって」

「なおとのおうち?」

「新しいおうちかも」

「パパ来れる?」

 美咲は驚いた顔をした。

「遊びに?」

「花をむかえに」

「それはできるよ」

「じゃあいい」

 花にとって重要なのは、名字よりも、父親が自分の生活から消えないことらしかった。

「もしママと直人が結婚しても、パパはパパだからね」

「知ってる」

 花は少し得意そうに言った。

「なおとはなおと」

 美咲は笑った。

「そうだね」

 数日後、健一にも話した。

「まだ決まったわけじゃないけど、結婚を考えてる」

 電話の向こうで少し沈黙があった。

『そうか』

「花とのことは、今までどおり相談したい」

『うん』

「面会も変えるつもりない」

『ありがとう』

 健一はそれから、少し言いにくそうに続けた。

『真理子とも、来年くらいに結婚しようって話してる』

「そうなんだ」

 胸がちくりと痛んだ。

 しかし、その痛みの正体を美咲はもう知っていた。

 未練ではない。自分の人生の大きな一章を共有した人が、本当に別の人生へ進んでいく寂しさだ。

「おめでとう」

『まだ決まってない』

「同じだね」

 二人で少し笑った。

『美咲』

「なに」

『俺、あの人にちゃんと謝りたいんだけど』

「直人に?」

『幼稚園のときのこと。あれからまともに話してない』

「別に無理に仲良くしなくていいよ」

『仲良くしたいわけじゃない』

「ひどい」

『いや、父親としてさ。花の周りにいる大人同士で、ずっと険悪なのも嫌だろ』

 美咲はしばらく黙っていた。

「じゃあ今度、花の誕生日の受け渡しのときにでも」

『わかった』

 花の八歳の誕生日には、少し不思議な時間があった。

 午前中は健一と真理子が花を連れて出かけ、夕方、美咲の家まで送ってきた。ちょうど直人もケーキを持って来たところだった。

 玄関前に、美咲、花、健一、真理子、直人の五人がそろった。

 以前なら、それだけで美咲は息苦しくなっただろう。

「なおと、ケーキ!」

 花が箱を覗こうとする。

「まだ開けない」

「何ケーキ?」

「いちご」

「やった!」

 健一が直人を見た。

 直人も気づき、少し姿勢を正した。

「あの」

 二人が同時に言った。

「どうぞ」

 直人が譲る。

「いや、そっちから」

 美咲は思わず笑いそうになった。

 直人が先に口を開いた。

「幼稚園のとき、すみませんでした。僕、花ちゃんとの関係を急いで言葉にしすぎました」

 健一はしばらく直人を見た。

「俺も悪かった。父親の場所取られるみたいで、勝手に突っかかった」

「取るつもりはないです」

「うん。今はわかってる」

 気まずい沈黙が落ちた。

「仲直り?」

 花が聞いた。

 健一が苦笑する。

「まあ、喧嘩は終わり」

「じゃあ握手」

「そこまでしなくていい」

 健一が言う。

「してください」

 花が命令する。

 二人は仕方なく手を出した。

「よろしくお願いします」

 直人が言う。

「こちらこそ……って何をよろしくするんだよ」

 健一が笑った。

 直人も笑った。

 真理子が美咲の横で小さく息を吐いた。

「男の人って、面倒ですね」

 初めてまともに交わした言葉がそれで、美咲は吹き出した。

「ほんとに」

 二人で笑うと、健一が「聞こえてるぞ」と言った。

 その日の夜、花を寝かせたあと、美咲は真理子からもらった小さなカードを見た。

 電話番号と、「花ちゃんのことで何かあれば、いつでも」とだけ書かれていた。

 美咲はすぐ連絡するつもりはなかった。

 でも、そのカードを捨てずに引き出しへしまった。

 家族の外側だと思っていた人が、少しずつ花の周りの安全な大人になっていく。

 それは美咲にとって、想像していなかった未来だった。

 翌週、花が学校で「家族の絵」を描く宿題を持ち帰った。

「だれ描くの?」

 美咲が聞く。

「いっぱい」

 画用紙には、美咲、花、健一、直人、真理子、岡山の祖母まで並んだ。

「先生、入りきらないって言わないかな」

「家族だからいいの」

 花は迷いなく言った。

 美咲は以前なら、「直人はまだ家族じゃない」と訂正したかもしれない。

 今はしなかった。

 家族という言葉の意味を、大人だけが決めなくてもいい。

 花にとって大切な人が増えたのなら、その感覚を尊重したかった。

 同時に、美咲は自分の心にも問いかけた。

 直人と結婚したいのか。

 傷を埋めてもらうためでも、花に父親役を与えるためでもなく、自分自身がこの人と暮らしたいのか。

 答えは、以前よりずっと静かだった。

 はい。

 熱に浮かされたような確信ではない。

 喧嘩する日も、仕事で会えない日も、疲れて優しくできない日もあると知ったうえで、それでも日常を一緒に作りたい。

 美咲にとって、それが結婚したいという気持ちだった。

 それから一か月ほど後、直人は美咲を六甲山へ誘った。

「二年近く前に、北野へ行きましたよね」

「そうだね」

「今度はもう少し上へ行きませんか」

「山?」

「山」

 美咲は何となく察した。

 察した自分を認めると緊張するので、考えないようにした。

 当日、花は健一のところへ泊まりに行った。

 今回は、美咲が自分から健一に頼んだ。

「ありがとう」

『どういたしまして。楽しんでこい』

 以前なら、その言葉すら皮肉に聞こえたかもしれない。

 今は普通に受け取れた。

 夕方、二人は六甲ケーブルで山を上った。

 窓の外を木々が流れ、街が少しずつ遠ざかる。

「緊張してる?」

 美咲が聞く。

「何がですか」

「わかりやすい」

「高橋さんこそ」

「私はしてない」

「手、冷たいですよ」

「山だから」

「まだ車内です」

 二人で笑った。

 ところが山上へ着くと、霧が出ていた。

 楽しみにしていた夜景は、白い靄の向こうにほとんど隠れている。

「……見えないですね」

 直人が呆然とした。

「見えないね」

「天気予報、晴れだったのに」

「山だもん」

「もう少し待てば」

「いいよ」

 美咲は笑った。

「夜景見に来たんでしょ」

「まあ、それも」

「それも?」

 直人が黙った。

 展望台には他にも何組かいたが、皆、霧が晴れるのを待っている。

 風が冷たい。

「カフェ入る?」

「いや、もう少しだけ」

 直人は明らかに焦っていた。

「直人」

「はい」

「予定どおりじゃなくてもいいんじゃない?」

 美咲が言うと、直人はしばらく美咲を見て、それから笑った。

「それ、高橋さんに言われると効きますね」

「私も学んだの」

「じゃあ、ここでいいか」

 直人はコートのポケットから小さな箱を取り出した。

 わかっていたはずなのに、目の前にすると息が止まった。

「高橋美咲さん」

「急にフルネーム」

「ちゃんとしようと思って」

「直人らしい」

 二人とも小さく笑った。

 直人は箱を開かなかった。

 まず、美咲を見た。

「僕は、たぶんこれからも仕事を抱えそうになるし、先回りして余計なことをすると思います」

「プロポーズで欠点から言う?」

「大事なので」

 直人は続けた。

「高橋さんも、たぶん一人で大丈夫って言って無理するし、僕が何かすると疑うこともあると思う」

「否定できない」

「花ちゃんも成長したら、今とは全然違うことを言うかもしれない。健一さんとの関係も、僕には全部わからない」

 風の音がした。

 霧の向こうで、ほんの少し街の光が滲んでいる。

「だから、何も問題が起きないとは約束できません」

 直人は一度息を吸った。

「でも、問題が起きたら話す。逃げそうになったら戻る。勝手に答えを決めない。それを、これからも一緒に続けたいです」

 美咲の目が熱くなった。

「僕と結婚してください」

 直人が箱を開く。

 中には細い指輪があった。

 派手ではなく、仕事中にもつけられそうなものだった。

「……はい」

 美咲は答えた。

 涙が落ちた。

 直人も目を潤ませている。

「よかった」

「まだ夜景見えてないけど」

「もういいです」

「さっきまでこだわってたのに」

「どうでもよくなりました」

 直人が美咲の手に指輪をはめた。

 少し大きかった。

「サイズ」

「え」

「ちょっと大きい」

 直人の顔が青くなる。

「嘘でしょ」

 美咲は笑いながら泣いた。

「直せるよ」

「測ったつもりだったんです」

「どうやって」

「前に指輪見たとき」

「勝手に測ったの?」

「目で」

「無理に決まってるでしょ」

 二人は霧の展望台で笑った。

 そのとき、風が少し強くなった。

 白い霧が流れ、下の街の灯りが一部分だけ現れた。

「見えた」

 直人が言う。

 すべてではない。

 神戸から大阪まで続く夜景の一角が、雲の切れ間から覗いているだけだった。

 美咲には、それで十分だった。

 未来も同じだと思った。

 全部見通せる必要はない。

 今見えている範囲を、一緒に歩けばいい。

 翌日、花が帰ってくると、美咲の指輪を一秒で見つけた。

「それ!」

「見つけるの早い」

「けっこんするの?」

 美咲は直人と顔を見合わせた。

「うん。しようと思ってる」

 花は少し黙った。

 美咲の胸が緊張する。

「なおと、ここに住む?」

「いつかね。花と相談してから」

 直人が答えた。

「パパは?」

「パパはパパ」

「真理子さんは?」

「真理子さんは真理子さん」

「いっぱいになるね」

 花が言った。

「何が?」

「花のだいじな人」

 美咲は泣きそうになった。

 直人はポケットから小さな包みを出した。

「花ちゃんにも、これ」

「プレゼント?」

 中に入っていたのは、小さな方位磁針のキーホルダーだった。

「これ何?」

「コンパス。どっちが北かわかる」

「なんで?」

「僕、花ちゃんのパパにはならないけど、迷ったときに一緒に方向を考える人にはなりたいから」

 花は難しい顔をした。

「よくわかんない」

「だよね」

 直人が笑う。

「でも、かわいいからいい」

 花はランドセルにつけると言った。

 美咲は直人を見た。

 完璧な言葉ではない。

 子どもには半分も伝わっていない。

 でも、それでいい。

 家族になることも、きっと一度の誓いで完成するものではない。

 何度も名前を呼び、失敗し、話し直して、少しずつ形になっていく。

 窓の外に夕暮れの神戸が見えた。

 山の上では霧に隠れていた灯りが、今は遠く穏やかに瞬いている。

 美咲は指輪を指でそっと回した。

 少し大きなその輪は、近いうちに直してもらうつもりだった。

 未来だって、最初からぴったりでなくていい。

 合わないところを見つけたら、二人で直していけばいいのだから。

 その夜、花が眠ったあと、美咲と直人は改めて結婚後の話をした。式をするか。いつ一緒に住むか。名字をどうするか。花にはどこまで説明するか。

「プロポーズした日に事務的ですね」

 直人が苦笑する。

「大事でしょ」

「大事です」

 話は一時間以上続いたが、決まらないことの方が多かった。

 それでも二人は焦らなかった。指輪が少し大きいように、決めたあとで調整できることもある。時間をかけないと決められないこともある。

「一個だけ決めよう」

「何を?」

「急がない」

 直人が笑った。

「それ、僕たちには一番必要かもしれない」

 美咲も笑った。

 約束は、未来を固定するためではなく、変わっていく未来の中で何度でも戻ってこられる場所を作るためにある。

 美咲は、ようやくそんなふうに思えるようになっていた。

 それで、今は十分だった。二人には十分だった。

 帰宅すると、花は指輪より先に六甲山で買った菓子の袋を覗き込んだ。直人が「大事な話がある」と言っても、「お菓子のあと」と譲らない。美咲は笑いながら上着を脱いだ。人生を変える約束の夜にも、明日の朝食と洗濯物は待っている。その普通さが、今は心強かった。


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