第十二章 祝言
結婚式をすると決めたのは、プロポーズから二か月後だった。
最初、美咲は式をしなくてもいいと思っていた。
役所で手続きをし、三人で食事をすれば十分だと考えていた。
「ドレス着たくない?」
由紀に聞かれ、美咲は首を傾げた。
「着たいかどうか、考えたことなかった」
「一回目は?」
「着たよ。ホテルで。百人くらい呼んで」
「じゃあ二回目は好きにすればいいじゃん」
「二回目って言い方」
「事実でしょ」
由紀は笑った。
健一との結婚式は、両家の親族、職場の上司、友人を呼んだ大きな式だった。
当時はそれが当然だと思っていた。父と腕を組んで歩き、健一へ渡され、定型の誓いを読み上げた。
幸せだった。
その記憶まで否定するつもりはない。
ただ、今の美咲が同じ形を望んでいるわけでもなかった。
直人に聞くと、彼も大きな式にはこだわらなかった。
「僕、友達少ないので」
「それは理由として寂しい」
「会社の人を呼び始めると大変だし」
「じゃあ、家族と本当に近い友達だけ?」
「それがいい」
二人は、港が見える小さなレストランを借りることにした。
人前式にして、自分たちの言葉で誓う。
「花も一緒に立つ」
それだけは最初から決まった。
問題は、そこからだった。
直人の母、恵美子は最初、「せっかくだから神社でも」と言った。
美咲の母は「写真だけでもちゃんと残しなさい」と言った。
花は「ドレスは三人とも白」と主張した。
「直人も白?」
「白いドレス」
「僕もドレス?」
「うん」
「それはちょっと」
「なんで?」
家族会議は、毎回どこかへ逸れた。
美咲は以前なら、全員の希望を聞いて自分が調整しようとしただろう。
今回は違った。
「私たちの式だから、最後は私たちで決めるね」
母たちにもそう伝えた。
言うときは緊張したが、二人とも「そうね」と引いた。
誰かに境界を示すことは、その人を拒絶することではない。
美咲はようやく、それを実感できるようになっていた。
花の名字についても、時間をかけて話した。
大人の制度上の手続きは、美咲と直人が調べて進める。ただ花には、生活の中で何が変わり、何が変わらないのかを丁寧に説明した。
「ママの名前、変わるの?」
「変わる予定。でも仕事では今までの名前を使うかもしれない」
「花は?」
「花の気持ちも聞きながら決める」
「学校で名前変わる?」
「もし変えるなら、先生にも相談する」
「パパの子じゃなくなる?」
やはり、花が一番気にしたのはそこだった。
「ならないよ」
美咲は答えた。
「名字がどうなっても、健一が花のパパなのは変わらない」
直人も隣で頷いた。
「僕も変えない」
「何を?」
「花ちゃんのパパが誰かってこと」
花は安心したように、直人の肩にもたれた。
健一とも、式の前に一度話した。
「式には呼ばないつもり」
美咲が言うと、健一は笑った。
「呼ばれても困る」
「だよね」
「花は?」
「もちろん出る」
「ならよかった」
健一はためらってから言った。
「式の日、朝までこっちで預かろうか? 準備大変だろ」
「いいの?」
「真理子も手伝うって」
美咲は一瞬ためらった。
式の朝は花と一緒にいたい気もした。
けれど、花にとって父親と過ごす時間を「結婚式だから」と遠ざける必要もない。
「じゃあ、前の日だけお願いしようかな。朝、会場まで連れてきて」
「了解」
健一は頷いた。
「美咲」
「なに」
「おめでとう」
一瞬、時間が止まったようだった。
「……ありがとう」
美咲は答えた。
健一との間にあったものが、きれいに消えたわけではない。
傷も、怒りも、共有した年月も残っている。
ただ、それらを夫婦という形の中に置いておく必要がなくなったのだと思った。
結婚の準備で、思っていた以上に難しかったのはお金の話だった。
ある夜、二人は食卓にノートパソコンと通帳を並べた。
直人の収入。美咲の収入。家賃。食費。花の教育費。保険。貯蓄。健一からの養育費。
「養育費は、花のお金として分けておきたい」
美咲が言った。
「賛成です」
「生活費、三等分とかにしないからね」
「三等分?」
「直人、美咲、花、みたいに」
「そんな計算しませんよ」
「念のため」
直人は苦笑した。
問題は、二人の収入差だった。
直人の方がかなり多い。家賃を半分ずつにすれば、美咲の負担が重くなる。直人は「僕が多めに出す」と言った。
「でも、それだと私が養ってもらうみたい」
「またそれですか」
直人の声に少し苛立ちが混じった。
「またって何」
「僕が多く出すことと、高橋さんが自立してないことは別でしょう」
「わかってるけど」
「わかってないから嫌なんじゃないですか」
美咲は黙った。
直人も言いすぎたと思ったのか、息を吐いた。
「ごめんなさい」
「ううん。たぶん、その通り」
美咲は通帳を見た。
「私はまだ、誰かに多く出してもらうと、自分が弱くなる気がする」
「僕は逆です。多く出せば役に立てるって思いそうになる」
二人は顔を見合わせた。
「面倒な二人だね」
「本当に」
結局、生活費は収入に応じて割合を決め、花の教育費は美咲と健一の責任を基本にしつつ、直人が何か贈りたいときは事前に相談することにした。共同の口座を作る一方で、それぞれの個人口座も残す。
「夫婦なのに別々にするの変かな」
「僕たちが困らなければいいんじゃないですか」
直人は言った。
美咲はその答えが好きだった。
住まいについても、すぐには一緒に住まないことにした。
式のあと数か月かけて物件を探し、花の学校生活に無理がない時期に動く。
「けっこんするのに、なおとすぐ来ないの?」
花は不満そうだった。
「週末は今までより一緒にいるよ」
「なんで?」
「おうち探してるから」
「ここじゃだめ?」
「三人だとちょっと狭いかな」
花は自分の部屋を見回した。
「花、せまくない」
「直人の荷物が入ったら狭い」
「なおと、荷物すてたらいい」
「厳しい」
直人が笑った。
こうして一つずつ話していくと、結婚は式よりもずっと地味な作業の連続だった。
けれど美咲は、その地味さを嫌いではなかった。
夢のような一日を作るより、翌朝から困らない仕組みを二人で作る。
それは昔の結婚では十分にできなかったことだった。
式の一週間前、直人がまた仕事で問題を抱え込んだ。
新しいチームリーダーとして初めて大きな判断を任され、部下のミスまで自分で修正しようとして二晩帰宅が遅くなった。
「またやってる」
美咲は電話で言った。
『わかってます』
「わかってる人の帰宅時間じゃない」
『明日、部下と話します』
「自分で直した方が早いって思った?」
『思いました』
「直人」
『はい』
「結婚したら急に治ると思ってないからね」
電話の向こうで直人が笑った。
『僕もです』
「でも、放置もしないから」
『お願いします』
美咲は電話を切ったあと、小さく笑った。
結婚式直前まで、二人は何も完成していなかった。
それでよかった。
式の三日前には、花が突然「フラワーガールやりたくない」と言い出した。
「どうして?」
「みんな見るから」
練習で注目され、恥ずかしくなったらしい。
「やらなくていいよ」
美咲が答えると、直人もすぐ頷いた。
「花ちゃんがやりたいことだけやればいい」
「でもお花は持ちたい」
「持つだけでいいよ」
「ママと歩く」
「じゃあ一緒に歩こう」
役割を決めたからといって、その役割に子どもを合わせる必要はない。
花は式の飾りではない。三人で家族になる当事者の一人だ。
そのことを忘れないようにしようと、美咲と直人は確認した。
式当日の朝は、予報に反して雨だった。
「嘘でしょ」
美咲は会場の窓から空を見た。
海は灰色で、雨粒がガラスを流れている。
屋外テラスで短いセレモニーをする予定だった。
「中でもできますよ」
会場スタッフが言う。
「でも港が」
美咲が言いかけると、由紀が横から笑った。
「六甲山でも霧だったんでしょ」
「なんで知ってるの」
「直人さんに聞いた」
「余計なこと話してる」
由紀は美咲の肩に手を置いた。
「雨でも結婚できるよ」
「わかってる」
美咲は息を吐いた。
予定どおりにならないことに、まだ心が反応する。
けれど、そこで一日全部を失敗にしなくなった。
「中にしよう」
スタッフへ伝えた。
純白ではなく、少し生成りがかったシンプルなドレスを着た。
鏡の前に立つと、二十代の頃の自分とはまるで違う人に見えた。
頬の輪郭も、目元も変わった。
出産をし、離婚し、働き、泣き、笑ってきた時間が顔に残っている。
以前なら、それを「若くなくなった」と思っただろう。
今は、この顔が嫌いではなかった。
「ママ!」
控室のドアが開いた。
白いワンピースに小さな花冠をつけた花が飛び込んできた。
「きれい!」
「花も」
「なおとは?」
「向こう」
「見てくる!」
「待って、走らない!」
花は聞かずに出ていった。
後ろから真理子が顔を出した。
「すみません、朝からずっと興奮してて」
「ありがとう。連れてきてくれて」
「こちらこそ。花ちゃん、昨日も楽しそうでした」
真理子は照れくさそうに笑った。
「美咲さん、本当におめでとうございます」
「ありがとう」
二人はまだ親友ではない。
これからも、近くなりすぎる必要はないかもしれない。
ただ、花を大切に思う大人として、必要なときに話せる関係でいたいと思った。
健一は会場の入口まで花を送り、そこから帰る予定だった。
美咲はドレス姿のまま廊下へ出た。
「今日はありがとう」
「おう」
健一は一瞬、美咲を見て、視線を逸らした。
「似合ってる」
「そういうのいらない」
「褒めただけだろ」
二人で笑った。
直人が少し離れたところから近づいてきた。
濃紺のスーツ姿で、普段より緊張している。
健一と直人が向かい合う。
「花をよろしく」
健一が言ったあと、自分で首を振った。
「いや、違うな。花のことは俺もやる」
「はい」
「だから……美咲と花と、仲良くやってくれ」
直人が目元を緩めた。
「努力します」
「そこは『任せてください』じゃないのか」
「それ言うと、美咲さんに怒られるので」
「賢くなったな」
美咲は呆れた。
「二人で私の話しないで」
健一は笑い、花に手を振って帰っていった。
式が始まった。
雨のため、レストランの大きな窓の前に小さなスペースを作った。窓の向こうには濡れた港が見える。
美咲は誰かに腕を取られて入場しなかった。
花と手をつないで歩いた。
途中、花が緊張して歩幅を間違え、美咲のドレスの裾を踏んだ。
「ごめん!」
「大丈夫」
二人で笑った。
直人が正面で待っている。
花は美咲の手を直人へ「渡す」のではなく、そのまま二人の間に立った。
それが三人には自然だった。
誓いの言葉は、自分たちで考えた。
直人が先に読んだ。
「美咲さん。僕は、あなたを守ります、とは言いません。あなたは一人でも立てる人だからです。でも、一人で立たなくていい日に隣にいます。僕が仕事へ逃げたら呼び戻してください。僕も、あなたが全部一人で背負おうとしたら声をかけます。花ちゃんの父親にはなりません。でも、花ちゃんが困ったとき、話せる大人の一人であり続けたいです」
直人の声が少し震えた。
美咲の番だった。
「直人。私は、もう二度と誰にも傷つけられないように生きようとしていました。そのために、誰も必要としない人になろうとしていました。でも、あなたと出会って、頼ることと依存することは違うと知りました。私はあなたを、過去の誰かと比べて疑わないよう努力します。疑ったときは黙って離れず、話します。あなたを完璧な人だと思いません。私も完璧ではありません。それでも、何度でも話し直しながら一緒に生きていきたいです」
美咲はそこで一度、花を見た。
「そして花。あなたは、誰かのために家族を選ばなくていい。パパを大好きなまま、直人を大切にしていい。ママは、あなたの大事な人が増えることを喜べる人でいたいです」
花の目から涙が落ちた。
「花も言う」
予定にはなかった。
「何を?」
「ちかい」
会場から笑いが起こった。
花はしばらく考え、言った。
「ママとなおと、けんかしても、ちゃんとなかなおりしてください。花の前で大きい声出さないでください。あと、なおとは日ようび仕事しすぎないでください」
今度は大きな笑いが起きた。
「はい」
直人が真面目に答えた。
「ママも?」
「はい」
三人は指切りをした。
結婚式で指切りをする大人は、あまりいないだろう。
でも、それでよかった。
指輪を交換したとき、美咲の指には今度こそぴったりのサイズが収まった。
食事と小さなパーティーが続いた。
由紀が泣きながら笑い、直人の友人たちが仕事の失敗談を暴露し、母たちは互いに「本人たちが決めるのが一番ね」と言いながら結局料理の話で盛り上がった。
美咲の母は、乾杯のあとでこっそり美咲の手を握った。
「ええ顔しとる」
「化粧のおかげ」
「そういう意味じゃない」
母は笑った。
「前のときも幸せそうじゃったよ。あれが嘘だったとは思わんでええ。今日の幸せが本物なら、それでええ」
美咲は目を伏せた。
再婚が、過去の結婚を失敗という一言で塗り潰すものではない。その結婚があったから花がいて、傷ついたからこそ学んだこともある。
「うん」
美咲は母の手を握り返した。
少し離れた席では、浩一が直人に「仕事は人に振れ」と偉そうに言い、恵美子から「あなたが言うの?」と突っ込まれていた。直人は笑いながら頭をかいている。
家族は、きれいな人物だけを集めて作るものではない。欠点も過去も持った人たちが、同じ場所で少しずつ関わり方を覚えていく。
美咲には、その騒がしさが妙に愛しかった。
途中、雨が上がった。
「外、出られますよ」
スタッフが教えてくれた。
三人でテラスへ出る。
濡れた床に、港の灯りが反射していた。
「きれい」
花が言った。
曇った空の下でも、光は水面に揺れていた。
直人が美咲の手を握る。
「予定と違いましたね」
「いつものこと」
「慣れました?」
「少し」
美咲は笑った。
家族になったからといって、明日からすべてが変わるわけではない。
直人は直人のまま。花には健一がいる。美咲の仕事も続く。洗濯物は溜まるし、疲れれば喧嘩もするだろう。
それでも今日、三人は「一緒に生きていく」と選んだ。
明日からも、朝は慌ただしく、予定はずれ、たぶん何度も言い合う。
それでも同じ食卓へ戻り、必要なら話し直す。その繰り返しが、三人の暮らしになっていくのだろう。
港の向こうで、一つ、また一つと灯りがともった。
美咲はその光を見ながら、もう遠い世界を眺めている気がしなかった。
自分の足でここまで来た。
そして今は、隣を歩く人たちがいる。
それが、美咲にとっての祝言だった。
花が濡れたテラスを小さく跳ね、直人が「滑るよ」と追う。美咲は二人の背中を見て、胸の奥で静かに息をついた。
雨上がりの港は、いつもより輪郭の濃い光を水面に揺らしていた。
店へ戻る直前、花が二人の手を左右からつかんだ。三人の歩幅は揃わず、美咲は一度つまずきかけた。「ちゃんと歩いて」と言うと、花が声を立てて笑う。直人も笑った。美咲は握られた手の温度を確かめ、そのまま明るい室内へ戻った。




