エピローグ 水平線
結婚から半年後。
美咲たちは、垂水区の少し広いアパートで暮らしていた。
引っ越しは、三人で何度も物件を見て決めた。花の学校生活を大きく変えず、健一が迎えに来やすく、直人の通勤にも無理がない。駅から少し歩くが、バルコニーからは遠くに海が見えた。
「ここがいい」
最後に決めたのは花だった。
「なんで?」
「船が見えるから」
それだけの理由だった。
けれど美咲も、内心では同じことを思っていた。
暮らし始めてみれば、新婚生活は思っていたより地味だった。
「直人、靴下」
「はい」
「はいじゃなくて、洗濯かご」
「今入れます」
「なおと、また怒られてる」
「花ちゃんもランドセル床にあるよ」
「今やる!」
「二人とも今やって」
朝は忙しい。
洗面所を使う順番で揉め、牛乳が切れていることに誰も気づかず、直人がゴミの日を一度間違えた。
美咲はそれらに苛立ちながら、ときどき笑った。
家族になるとは、夜景の見える場所で誓い合うことより、こういう細かな不一致を毎日調整することなのかもしれない。
直人はチームリーダーになった。
以前より会議は増えたが、仕事を自分で抱え込むことは減った。
完全になくなったわけではない。
「今日、遅くなる」
ある火曜日の朝、直人が言った。
「聞いてない」
「昨日決まった」
「昨日、言えたよね」
「あ」
「直人」
「ごめん」
「謝る前に、今日は何時?」
「二十一時には」
「夕食は?」
「いらない」
「了解」
それで終わった。
昔の美咲なら、その小さな連絡漏れから「また仕事が一番になる」と未来まで不安になっただろう。
今は、今日の問題を今日の大きさで扱えるようになってきた。
美咲の仕事も順調だった。
経理補助として一年近く働き、上司から次の更新時に正社員登用の選考を受けないかと言われていた。
嬉しかった。
同時に、迷っていた。
美咲のお腹には、新しい命がいたからだ。
妊娠がわかったのは一か月前だった。
検査薬の結果を見たとき、最初に湧いたのは喜びだけではなかった。
仕事はどうする。
せっかく見えてきた正社員への道は。
花のときのように、また自分の時間も仕事も全部後回しになるのではないか。
その不安を直人に話すまで、美咲は二日かかった。
「嬉しくないわけじゃない」
夜、二人で台所に立ちながら美咲は言った。
「わかってます」
「でも怖い。また仕事を諦めることになるんじゃないかって」
直人はすぐに「大丈夫」と言わなかった。
「どうしたいですか」
その質問がありがたかった。
「選考は受けたい」
「うん」
「妊娠してることも、必要な時期に会社と相談する」
「うん」
「もし正社員になれなくても、だからって全部終わりだと思わないようにしたい」
「うん」
「直人も育児する」
「もちろん」
「『手伝う』じゃないからね」
「はい」
直人は笑った。
「仕事の調整、今から上司と話します」
「まだ早くない?」
「先回り?」
「ちょっと」
「じゃあ、いつ話すか一緒に決めましょう」
「そうして」
二人は笑った。
花に妊娠を伝えたのは、その少し後だった。
「赤ちゃん?」
花は美咲のお腹をじっと見た。
「まだ小さいけどね」
「女の子?」
「まだわからない」
「いつ出てくる?」
「春くらい」
花はしばらく考えた。
「赤ちゃん来たら、ママ花のこと忘れる?」
美咲の胸が締めつけられた。
「忘れないよ」
「赤ちゃんの方がちっちゃいから、いっぱい抱っこする?」
「すると思う」
「花も?」
「花も、抱っこしたいときは言って」
「重いよ」
「知ってる」
花は照れたように笑った。
その夜、美咲は健一にも伝えた。
花が不安定になるかもしれないので、知っておいてほしかった。
『おめでとう』
「ありがとう」
『花のこと、こっちでも気にしとく』
「お願い」
健一と真理子も、三か月前に入籍していた。
花には、二つの家にそれぞれ違う形の生活がある。
複雑だ。
けれど、複雑だから不幸というわけではない。
土曜日の夕方、美咲はバルコニーに立っていた。
秋の空が薄い橙色から紫へ変わり始めている。
遠くに明石海峡大橋が見えた。
海の上を船がゆっくり進んでいく。
背後では、花と直人が言い争っていた。
「なおと、望遠鏡かして!」
「今、僕が見てる」
「大人なのに!」
「大人も見たい」
「順番!」
「花ちゃんが順番抜かしたんでしょ」
「ママー!」
美咲は笑った。
「二人で解決して」
「ママ、助けてくれない!」
「自分たちで話してください」
しばらくして静かになった。
どうやら一分交代に決まったらしい。
美咲はお腹に手を当てた。
まだ外からはほとんどわからない。
直人がバルコニーへ出てきた。
「冷えるよ」
「大丈夫」
「何か羽織る?」
「大丈夫」
「本当に?」
「直人」
「はい」
「今のは親切。大丈夫って言ったから、そこで止まって」
「了解」
直人は隣に立った。
以前なら肩を抱いたかもしれない。今は、美咲が自分から少し寄るのを待った。
美咲は直人の腕に肩を預けた。
足元では花が望遠鏡を覗き、船を見つけて騒いでいる。
「パパの家からも見えるかな」
「どうだろうね」
「今度聞く」
「うん」
夕暮れが深くなる。
街に、港に、一つずつ灯りがともり始めた。
三年前、美咲は灘区の小さなアパートから、同じような光を見ていた。
当時、その灯りは自分とは別の世界のものに見えた。
笑う人たち。恋をする人たち。余裕のある家族。自分が追い出された場所。
今、その見え方は少し違っていた。
灯りの一つ一つの奥にも、食卓があり、眠れない夜があり、言いそびれた言葉があるのだろう。
自分だけが光の外側にいたわけではない。そう思えるまでに、ずいぶん時間がかかった。
美咲はもう、向こう側に完成した幸福があるとは思わない。
手元にある暮らしを、今日も選び直していくしかない。
「安息の港」に着いた、という感じもしなかった。
人生にはこれからも嵐が来る。
子どもたちは成長する。仕事も変わる。直人とだって、また大きな喧嘩をするかもしれない。
でも、もう港から出ることを怖がってはいなかった。
戻れる場所は、一つの住所ではない。
話し直せる人がいること。
自分で選べる仕事があること。
助けを求められること。
そして、必要なら一人でも立てると知っていること。
そのどれか一つではなく、全部が今の美咲を支えていた。
「ママ、見て!」
花が叫ぶ。
「船、光った!」
美咲は望遠鏡を覗いた。
水平線に近いところを、一隻の船がゆっくり進んでいる。
船尾の灯りが、小さく揺れていた。
「見える?」
「見えるよ」
「どこ行くのかな」
「どこだろうね」
美咲は笑った。
水平線の向こうは、まだ見えない。
だからこそ、進んでいける。
港の灯りは、もう美咲を遠い世界へ呼ぶ光ではなかった。
帰る場所を示しながら、それでも外の海へ出ていいのだと教えてくれる光だった。
美咲は直人と花の間に立ち、暮れていく海を見つめた。
その先には、まだ名前のない未来が広がっていた。




