56話 最恐
「おはよう、瑞兎。俺よりも遅く起きるだなんてずいぶんいいご身分だね」
ようやく明るさに慣れた目が一番先に見つけたのは、こちらに向けて抜刀をしようと構えた陽之衛だった。
「若!」と瑞兎が思わず叫んでいたが、今まで薄かった酸素が急激に肺に入ってきたせいで激しくむせかえり、さらに骨が折れている痛みもすべてが同時にやってきて声にならない悲鳴をあげた。
その激痛にあえぐ『大事な子分』がえらく気にいったのか陽之衛は目を輝かせて肩を震わせる。
しかし瑞兎を縛り上げていた紐はバラバラに崩壊していた。
気づいたときには宙に浮いていた彼の体は地面に真っ逆さまに落ちていた。
衝撃にそなえて目をぎゅっとつむる。
いまだってけた外れなほど体が痛いのに、それ以上のものが来るだなんて耐えられるわけがない。
しかし想像は外れる。
だれかが瑞兎を受け止めたのだ。
背中とももの裏に温かい大きな手がかかり、ゆっくりと目を開けると汗を流した美丈夫の顔が間近にあった。
本物、現実か確認するために胸に手を当て、軽く撫でてみるときちんと固いいつもの胸板だ。
うそだと驚愕で肺から咳が込みあがってきた。
「げほ、げ、ゴホ、な、なんで若がここに、将志郎さんまで!?」
「そりゃ助けに来たに決まってるだろ、寝ぼけてるなよ、まぬけなうさぎ! 大人しく蛇に食われて情けないんだから」
「だ、だって怖かったんですもん……」
ややぁっと抱えなおされ、将志郎に俵扱いされてしまいぎゃあッと尻が騒いだ。
気にせず将志郎は陽之衛の背中にぴったりと己の背中をくっつける。
「死ぬなよ」
「だれに物言ってんだバカ。刀、借りるからな」
「うちの家宝だ。壊したら承知しないぞ。それじゃ任せたぜ、神様」
「おう、この神様スサノオ様陽之衛様が任されてやろう。お前たちは下がれ」
その言葉を聞き、息を強く吸い込んだ将志郎が鳥居の方へ走り出す。
そして入れ違いに空から鴉が降ってきた。
地面を砕きながら三本の足が着地すると黒い翼が体を覆い、人間の形に戻る。
その手に銃を構えていて、陽之衛の頬の横に添えられた。
「隙を作れ!」と陽之衛の叫びに合わせて八咫がためらいなく引き金をひいた。
パァンと銃声が境内に響く。
放たれた銃弾が向かった先は、瑞兎が捕らえられていた大きな塊だ。
黒焦げたような太い幹を思わせるそれは先端に向かうと三又に分かれ、蛇の顔があった。
それぞれに赤、青、黄色の目が付いておりけたけたと下卑た笑い声を不協和音にあげている。
まっすぐに銃弾は塊へ己をめり込ませようと回転しながら向かう。
すさまじい速度で、人間からすれば一瞬だった。
黒蛇からしても何が飛んできたのかわからなかったのだろう。
それとも避けずとも問題ないと判断したのか、首の一本を貫かれる。
続けて銃声は連続で鳴り、音が耳に入ったときには残りの二首にも弾は無事に仕事を果たしていた。
黒い液体が傷から噴き出す。
辺りに黒い雨が降ってきて、陽之衛の服を濡らしていった。
帽子を被っていたおかげで顔が汚れることはないが、ツバから大量に雫が滴る。
八咫も弟子の肩を軽く叩いてまた飛び去っていった。
『ずいぶんと余裕じゃないか!』
男と女の声が混じった怒声が雨に飲まれた。
蛇の下にいたヒサベルの叫び声だ。
いや、彼女だったものというべきか。
白い服は雨と血で真っ黒に染まっており、体の一部も汚れと同じく黒く変色している。
ひどく消耗しているようで、肩で大きく息をしながら腹を押さえていた。
なにせそこは瑞兎が開けた穴があるからだ。
黒蛇の腹があけられたときにヒサベルの体にも揃いのものができた。
カハ、と血を吐き出して乱雑に口元を拭っている。崩れた髪の先にも雫が滴った。
赤色に代わった目を見開き、瞳孔を縦にした彼女は人とは異なる存在とさらに変容した。
いや、正体を〝現した〟という方が正しいだろう。
スサノオを憎むあまり人の女へと魂を移し、ここまで虎視眈々と機会を待ち続けていた大蛇は裂けそうな口元を歪ませる。
そんな姿に陽之衛は鼻を鳴らして刀の柄を握りなおした。
「ヤマタノオロチともあろうものが、そっちは余裕がなさそうだな。せっかく久方ぶりに会ったって言うのに、しゃべるだけしゃべって気持ちよかったか?」
飛んできた蛇の尾が陽之衛の横に振り下ろされる。
力加減などまったくないせいで地面がぐしゃぐしゃに割れた。
地響きが鳴り、揺れと衝撃波が陽之衛の帽子を空に飛ばす。
『ハハ、人間の姿でなにを強がっている。お前が死ねばスサノオが出てくるんだったな。だったら殺さずに弄ってやろう、どれだけ懇願しても死ねないように!』
「まだべらべらよく口が回る獣だこと。自分が優位だと勘違いしてなきゃそうはならないね」
『間違っていないだろうが!』
尾が陽之衛の頭上へと上がった。
このまま重量のある太い尾が落ちてきたらひとたまりもない。
逃げるために空にいた八咫もさすがに助けに入るために高度を下げたが、陽之衛が「動くな!」と檄を飛ばしたせいで羽ばたきをやめた。
そしてまたも振り下ろさせる尾が容赦なく陽之衛を叩き潰し──、はしなかった。




