50話 いともたやすく折ってしまえる
かんざしを掲げて夕陽に照らした彼女も満足そうにうなずき、瑞兎の前に戻ってくる。
なにも言わない瑞兎の髪をさら、と撫でてから隣に腰を下ろした。
「まだ持っていてくれたなんて嬉しいわ。これも良く似合っていたから、もう一度挿したところを見たかったの。ふふ、やっぱり青い髪に赤が映えてきれいだこと」
青みがかった黒髪を持つ瑞兎の髪を何度も撫で、ヒサベルが恍惚の表情を浮かべた。
細い指がまたくすぐってくる。
前と同じくかんざしを髪に挿されたが、彼女の指がひどく冷えていて肌が凍ったかと錯覚しそうだ。
触れられたところからどんどん固くなっていくような想像をして、ふっと緊張した息を吐いた。
その様子にヒサベルは「あははっ」と大口を開いて笑い、尖った犬歯をのぞかせる。
「そんなにおびえないで。いじめたくなってしまうわ。うふふ。かまいたちは見つからなかったけれど、次に目を付けたのは神隠しね」
「貴女も調べに行ったと聞いていますよ。巻き込まれたらしいじゃないですか。よくご無事でしたね」
かんざしを取って彼女に返す。
ヒサベルは大人しく受け取ると、手の内で遊ばせてから己の髪に挿した。
「どうやら寝ていたみたいで何も覚えていないんですの。せっかくオカルト事件が起きた渦中にいたというのに運がなかったわ。ねぇ、貴方もいたそうじゃない。聞かせてくださらない?」
「それが目的でしたか。本当にかけらも記憶にないんですね?」
「思い出せるのは噂を聞きつけて神社に向かったことよ。境内に踏み入ったら白い靄が目の前を覆ったの。その中で、何かを見たわ」
ハ、と瑞兎は腰をわずかだけ浮かせた。
被害にあった少年と同じだ。
食いつきそうになったのをこらえながら、お茶をすすってから手帳を広げる。
もしその靄の中にいたものがわかればまじないを使用した者もわかるかもしれない。
神社を訪れたみんなを異界に送ったほどの強い術はどうやって使われていたのか。
「靄の中になにがいたのか、少しでもいいから思い出せませんか。ほかの被害者の方からの話もまとめているもので」
「そうね……。大きいものが動いていた。白くて筒のような、大樹にも似ていた気がするわ。靄はどんどん濃くなっていって、それの正体を見る前に寝てしまったの。そのあと鯨の鳴き声と潮騒が聞こえてきて目を覚ましたわ。あ、そう、そのときはっきりとその靄の主を見た」
「どんなものでしたか?」
「蛇よ。大蛇がいたの。そいつが靄を作り出していたんだわ」
「──あ」
瑞兎は自分が油断していたのに気づいたのは一呼吸の間の後だ。
突然ヒサベルに腕を掴まれ、ぐいっと引き寄せられる。
彼女の翡翠の目が間近に迫ってきたことに驚愕しつつ、なんて吸い込まれそうなほどきれいな緑だろうとつい考えてしまった。
瞬間に腕にひりついた痛みが走り声が漏れた。
視線を迷わせた後に腕を確認すれば、白いものが絡みついていた。
するすると動いている。感触はなめらかで、ほのかに温かさがあった。
瑞兎は理解ができずじっとそれを観察する。
長い紐のようなものはぐるぐると瑞兎の腕に巻き付くと突如締め上げてきた。
紐の先は三角になっており、横には小さな赤い目がついていた。
いやにつぶらだが、おそろしく真っ赤で、そこが顔だと気づく。
チロリと細長い舌が動いた。先ほど聞こえた音は蛇の鳴き声だったのだ。
「蛇……!? ぐ、痛ぁっ!」
小さく呻くとヒサベルがもう片方の手で顎を押さえてくる。
彼女も蛇と同じく舌を出して見せてくる。
そこには術式が書き込まれていた。
あの転移のまじないの印だ。
しまった、と瑞兎は彼女たちを振りほどこうと力を込めたが、抵抗よりも早くもう一匹の蛇が足元に巻き付いて締め上げてきた。
容赦のない力加減に足から骨がきしむ嫌な音が聞こえて、鈍い痛みに歯を食いしばる。
いつの間にかやってきた蛇は数を増していき、次々と瑞兎へ飛びついてきた。
おそらくヒサベルがまじないを使って召喚しているのだろう。
なんとか剥がそうと試みるが、そのたびに噛みつかれて力が抜けた。
あっという間に蛇は瑞兎の体を包み込み、あちこちから痛みが襲ってきて悲鳴すらあげられなくなった。
視界がかすみ、呼吸も浅くなり、蛇を取ろうとしていた手はだらりと下がった。
ヒサベルは意識を失いつつある瑞兎の頭を軽く撫でてから、かんざしを床に乱暴に捨て指を鳴らした。
蛇が顔から退く。
「どうせ、これからわたくしの腹の中におさまるんですしいろいろ教えて差し上げましょう。どこから聞きたくて?」
「お……おまえ、は……」
「ヒサベル・カーターよ。もちろん本当に存在しているわ。外務省に問い合わせてみればいい。でもそれは表向きの顔」
パチン、と指が鳴った。
彼女は頬を染めてうっとりとした顔、声、視線で瑞兎を見つめる。
ようやくわかってきた。
この女が事件のことを偶然取材していたから知っていたんじゃない。
陽之衛に出会ったからではなく、むしろ自ら追いかけていたのだ。
ずっと裏で自分たちを観察し続けていた。
夢子の葦を無理やり出そうとしたのも、やはり八重に絡みついていた蛇もこいつらだったのだろう。
姿こそ見なかったがまったく同じやり方だと、いま自らの体をもって理解している。
瑞兎の中にいるなにかを絞り出そうと蛇たちは巻き付きを強くした。
内臓が苦しい。
げほ、と咳をすればわずかに出た血が床を汚した。
瑞兎が椅子から落ちてうつぶせになると、ヒサベルが前に立つ。
喉を転がすように笑いながら髪から赤い蛇を一匹するりと引き出した。
ほかの蛇たちが開けた襟元に忍ばせてくる。
するとその赤い蛇は瑞兎の背中に思い切り噛みついた。
鋭い牙が肌に食い込んできて体がビクビクと跳ねた。
「ぎ、ぐぅっ! アアア!」
何度も噛まれた彼の背中は傷だらけになっていく。
だがそこからは赤い血ではなく黒いものが流れ出した。
瑞兎は息を荒げ、早くなる鼓動と血管が膨張していく感覚に絶叫する。
「枯れ葦になる気分はどう? 頭の中にたくさん〝悪い子〟になる自分が流れてくるでしょう? あら、その刀って……」
背中に埋め込まれていたアメノハバギリが震えだし、抵抗のためにうなじから生えてきてしまう。
だがだれも扱える者はいない。
ヒサベルが厄介そうに掴んでひねり出すと、わざと机にぶつけて刀身をいともたやすく折ってみせた。
それは瑞兎の魂をつかさどるものでもある。
ドクン、と心臓が割れんばかりに大きく鼓動し、口からも黒い血が吐き出された。
折られた先が瑞兎の真横に転がった。
いくら本物ではないとは言え、神から授かった特別な刀だ。
あんなにあっさりと真っ二つになるとは信じられず、さらに背中に開いた穴に冷たいものが侵入してきた感触に瑞兎は身じろぐ。
しかし瑞兎は力を込めて刀の先に手を伸ばし、構わず握って蛇に突き刺した。
血しぶきを上げて一匹が瑞兎から離れた。
けれどヒサベルは冷静に瑞兎の腕を踏みつけ、刀をとり上げた。
蛇が喉にまで巻き付き締め付けがさらに増す。
そんな瑞兎の姿に嬉しそうにうなずき、彼女は刀の先を飲み込んだ。
「お行儀が悪くてよ」
「う、ウアァァ!」
「貴方もわたくしと一緒ね。他人を食って生きながらえている。ただの葦じゃなかったなんて、さすがスサノオの近くにいたものだわ! 手っ取り早くこっちにターゲットを移して正解だった。お前の魂もわたくしのものにしましょう。ようやくアイツに一矢報いる絶好の機会だもの」
傷から吹き出た黒い血が着物を染めた。
これ以上意識を保っているのは不可能だ。
なんとかまぶたを閉じまいと堪えていたが限界が近い。
神の使いである葦たちを襲い、食らう蛇。
刀をいともたやすく折り、陽之衛の正体であるスサノオの名を口にした。
そして足元でうごめいている影は巨大な尾を揺らしている。
(ごめんなさい、若……)
ガン、と頭を蹴り飛ばされ完全に目の前が真っ暗になった。
「アイツがたかが人間になったと聞いたときは驚いた。この国に帰ってくるのだってどれほど苦労したか。せいぜいお前はわたくしたち好みの甘美な味であってくちょうだい?」
彼女の背後で、大きな目が見開いた。




