43話 昔々のお話です
「私が若と初めて会ったのは、十年前──、私は十歳でした。若はたった九歳の頃に、葦たちが住む屋敷にやってきたんです」
ただの人間が来た、と大騒ぎになった屋敷の慌ただしさが耳の奥から聞こえてくる。
普段は結界に守られている人の目から隠れた葦たちの住処だ。
なのにちいさな人間は、大人たちみんなに崇められていて不思議だった。
理由を聞いてもだれも教えてくれなかったし、でも世話係を任命されてしまい、しばらくいじけて兄代わりの青年に泣きついていた。
陽之衛は最初の頃は人形のような子どもだった。
感情を表に出すことが少なく、なにに興味を持つのかもわからなければ、こちらに意識を向けさせるのにも苦労した。
日中は一人で歩き回っているし、朝が弱くて夜はさっさと寝てしまう。
瑞兎の仕事はもっぱら朝にちゃんと起こすことで、おかげで早起きにも慣れていった。
「いつもねずみを持っていました。蛇を探してるって言うんです。お前も探してと命令されていたんですが、私がてんで見つけられないから、じょじょに怒るようになっていったんです。この人にも感情があるんだ、って呑気に驚いていたっけ。大変だったけど楽しかった。弟ができたみたいで……」
「二人ともその頃からの付き合いなのか。長いんだな」
「えぇ、昔から若は横暴大魔神ですよ。でも若と私は違うものだって、ちゃんと認識しなきゃいけなかった。人間と葦は違うとさんざん言われてましたから。それにあの頃は私が刈りもやっていました。とにかく下手で、毎回大人たちにちゃんとやりなさいと叱られてたし、刀を振るうたびに陽之衛様との日常が遠ざかるんです」
大人たちは悪い葦を見つけてきては、まだほんの幼い瑞兎に暴かせて刈穫をさせた。
浴びた泥を水で落とさなければならず、寒さと肌を強く擦る痛みは子どもにはどれほど酷だったのだろう。
清めのためにお祓いを受けているときは自分こそが一番の汚れなのだと悲観した。
だから瑞兎にとって、ただの人間である陽之衛と接する時間は一番純粋に自分自身でいられる時だと信じて疑わなかった。
「油断していたんでしょうね。うっかりお役目をやめたいなんて零してしまって。そうしたら若が『俺がどうにかしてあげる』って言いだしたんです」
とにかく蛇を見つけてこいと命令されて探し続けた。
屋敷の中も庭も隈なく見て回ったが、陽之衛が持ち込んできた子猫とねずみがいるだけだ。
でも稽古の合間を縫って二人で駆けまわるのがやっぱり楽しくて、いっそ見つからなければずっと続くのにと願い始めていた。
きっとこうして遊ぶ時間を作ってくれることが、どうにかしてあげるという言葉の答えなのかもしれない。
だったら刈りをするのがつらくても我慢できる。
泥を浴びて吐いても、傷ついても若が笑って相手をしてくれるなら怖くなかった。
「でもね、若は本当に蛇を探していたんです」
「どんな蛇だったんだ?」
「とても恐ろしい蛇。……ずっと忘れていたかった。思い出さないように記憶を閉じ込めていました。だからうまく話せないかも、しれないけど」
握られていた手を将志郎が撫でる。
深く息を吸った。
鼻の奥に蘇っていた泥の腐臭が、将志郎から香る椿の匂いでかき消されていく。
「葦が枯れるというのは悪い気によって病気になることを言います。例えば人を恨んだり、神様の存在を疑ったり、心が揺れてしまうと授かった力がおかしくなって枯れるんです。植物が病気になると葉先が枯れるでしょう? それになぞらえていて、その部分を私は切り離せます」
千代は焦り、夢子は憎しみ、今まで見てきた枯れ葦は悪意を持ったものが多かった。
病気になった葉は刈り取れば正常に戻る。
しかし八重と、屋敷の葦たちはそのどれもと異なっていた。
「ある日の夜、屋敷の葦が突如として全員泥になってしまったんです。みんな枯れるはずなんてない、ちゃんと自分たちの心を守っていたものたちでした。夕べには一緒にご飯を食べて明日の予定を確認していたんですよ? 私は寝ていたところを若に起こされて、でも体のほとんどは泥になり始めていました」
息を飲んだ音が聞こえた。
彼が感じとったものに同調するようにうなずいて、もう片方の手で将志郎の手を上から包む。
そうしないと脳裏に思い出した光景に震えてしまうからだ。
「八重と一緒だったんです。何の理由もなくみんなおかしくなってしまった。泥は一斉に庭に向かっていて、そのあとを辿ると大きな蛇がみんなを飲んでいました。とても大きな蛇で、笑い声をあげていたんです……。恐ろしくて私は逃げ出そうとしたんですけれど、泥になった足では走れなくて」
そして騒いだせいで蛇に気づかれ、大きな口が瑞兎を飲み込もうと向かってきた。
そこからの記憶はあいまいだ。
ひとつはっきりと浮かぶのは、自分をかばって陽之衛が蛇に傷つけられ、血まみれになった姿だった。
「そのときはじめて若の体に異変が起きました。急に体が成長して、潮の匂いがしてきて、私から刀を奪うと難なく蛇を一刀両断してみせたんです──。それで、その人は自分はスサノオノミコトだと名乗ってきました」
今回は八重が無事に正常に戻ってくれたと聞いてどれだけ安堵したか。
屋敷の者たちはほとんど蛇に食べられていたから、だれももとには戻せなかった。
「信じられないなんて考えを一瞬で吹き飛ばしてしまえる勇ましい出で立ちと、差してきた朝陽の後光を覚えています。笑っちゃいますよね、これ以上ないほど安心していました」
「そんなことがあったなんて……。陽之衛はスサノオの葦だったということか?」
「いいえ、何度も暴こうとしましたが若は人間で間違いありません。そもそも三貴子は葦を作り出しませんから」
「なら、」
「若の中にはスサノオそのものがいます」
葦たちが陽之衛を敬っていたのは、彼の中に眠る神を見ていたのだ。
大人たちはみんな知っていた。
そして葦だけでなく霊獣もあやかしたちも、神が現れたことを警戒して見張っている。
普通の子として生きていけないから責任をもって葦たちが囲うことにしたのだ。
結局ただの人間だとあんなに注意して陽之衛と瑞兎を隔していたのに、実際はその子もまた人の世にいるには異物だった。




