4話 さて、「お願い」がきましたよ
舞の稽古を終えた瑞兎は足を急がせていた。
予定よりも遅くなってしまい、夜も更けてきている。
辺りにガス灯はあるものの、ほのかな明かりは心もとなく、やはり夜というのは得体のしれない恐ろしさがあるものだ。
早く帰らなければ腹を空かせた主人が怒っているかもしれず鳥肌が立った。
けれど石橋を越えたところで焦っていた足が突如として止まった。
明かりの下でサカキの枝が揺れているのが見えたからだ。その場から目を凝らす。
若い学ランの男子が、枝を揺らしながらだれかを待っている風であった。あ、と先ほどよりも早く走って彼に近づく。
「お迎えだなんて珍しいですね、若様」
「今日は帰りが遅くなるような気がしたから。芦原で待つよりこっちの方が早いでしょ」
「頭がよろしいようで。では、うどんでも食べに行きましょうか。ちょうどお腹が空いて倒れそうでした」
「瑞兎は食いしん坊だからなぁ。ねぇ、何か面白いことはあった?」
いいえ、と首を横に振る。
彼と違って毎日なにも変哲の無い日常を求めている瑞兎にとってはとても良い日だった。
「ところで、俺たちの仕事ってむやみに外に漏れないようになっているはずだよな」
「どういうことです?」
「ちょっとね。別に俺は知られても良いと思ってるけど、都合が悪いんだっけ」
「そうです」と神妙な顔で瑞兎が相槌を打つ。「もしかしてだれかにバラしたんですか?」
怒られそうな気配を察知し、陽之衛はぶんぶんとかぶりを振ってサカキの枝を揺らす。
どうやら編纂者との会話はまだ秘密にしておきたいらしい。
瑞兎も疑り深く陽之衛を観察したが、しっぽは掴まえられなかった。
「違うよ。人聞きが悪いな。瑞兎がつまらなさそうにしているから刺激をあげようと気を使ったんじゃないか。ほら、今回のは良さそうだよ」
声を弾ませた陽之衛に瑞兎は「今回?」と素っ頓狂な声で返事をして目を剥いた。
またどこかから面倒くさい事件を拾ってきたということだ。その証拠は彼がずっと持っているサカキの枝だ。
体が拒絶して見てみぬふりをしていた。陽之衛は都に行くと、警察から不穏な案件をサカキの手紙でもらってくる。
抗議をするために主人の肩を掴んで揺さぶった。
わはは、と軽快な笑い声をあげて陽之衛はお返しにと枝で瑞兎の顔を洗う。
「嫌です! だめです。元の場所に返してきてください。心優しい方が拾ってくれます。何でもかんでもに首を突っ込んで、かき回して人に迷惑をかけようとするのはおやめくださいと何度お願いしたら……」
「失礼だな、譲り受けたの。卵から鷲が生まれそうな予感がしたんだよね。だから俺がやらなきゃ」
「若はいつもそうやって! どうして大人しくしていられないのですか。だいたい、」
瑞兎の切ない懇願は流され、陽之衛はのれんをくぐると親父にさっさと注文をしていた。
早く隣に来いと椅子を叩かれたので地団太を踏む。
しかしだれも瑞兎の怒りに一切同調してこないので、仕方なく席に着くしかなかった。
言いかけた言葉を飲み込むために熱燗を追加注文し、少し冷えた体に熱い酒を流し込めば緊張が解れていく。
続けて前に置かれたたぬきうどんを熱いまますすった。
出汁が利いており、溶けた天かすから旨味が出ている。
わかめ、かまぼこと一緒に口に入れれば甘みも加わり熱燗も進んだ。
強張っていた力も思わず抜けて、結局陽之衛へのお説教も続かなかった。
しめしめとほくそ笑んだ陽之衛がサカキの枝から紙を取ると広げて、中身を読み上げ始める。
「数週間前から家内から『夜に恐ろしい声が聞こえてきて眠れない』と相談を受けたのですが、警察に相談しても、毎夜見張っても怪しいものが見つかりません。しかし声は続いており、ついに家内が倒れてしまいました。どうか助けていただけませんか。お礼はいかようにもいたします」
「なるほど」と低い声で返事をしたけれど、納得は難しい。
「ね、俺たち向けの案件ってこと。奥さんが不眠だなんてかわいそうじゃん。話を聞くだけでも行ってみよう。そうだな、明日でいいか。住所も書いてあるし」
「明日はまだ平日です。学校はどうなさるおつもりですか」
「えぇ? まったく、そんな怖い顔しても、……わかった。学校の帰りに行くってば。そうしたら合流もしやすいでしょ」
ぐぬ、と奥歯を噛む。
そんな簡単な抵抗で若さからの提案を断れると思っちゃいない。
一縷の望みにかけただけだ。
しかしどうしても彼に一緒に来て欲しいと頼られるのはやぶさかではないとほだされかけたが、いや、と酒を呷った。
(私の能力がどうしたっても必要なんだものな……。この人に勝てるなら喧嘩もするけど、結果は目に見えているし)
「わかりました。今度は枝をもらう前にせめて私に相談してください。──では住所を拝見し、ってこれ隣町のあの大きなお店構えをしている有名な薬屋ですよ」
「おや。ほんとだ、俺でも知ってる名前だ」
はぁ、と特大のため息が出た。
事件を回してくれている警官には悪いが、なるべく小さな目立ちにくいものにしてほしい。
でないとこの胃がギリギリと嫌な音を立てて嫌がるからだ。
食べたうどんの味もしなくなってきたところで、先に食べ終わった陽之衛が財布を取り出した。
「あー、おいしかった。お代はいくら?」
「へい」と店主人が元気に返事をする。
もふもふの茶色い毛で覆われた丸い手を擦り合わせ、「そのサカキをくだせぇ」と笑った。
シマシマのしっぽが揺れる。
「これでいいの? まったく、たぬきが考えていることはわからないなぁ」
「若様からもらったって自慢するんでさぁ。ついでに一円でもくれたら儲けになりますよ」
「どっちもあげるよ。親父は俺たちのこと、仲間内に宣伝していいからね」
「十分してますって。そういえば最近あたしらのようなもののことを嗅ぎまわってるやつがいるらしいですよ。お二人さんも気をつけて」
たぬきの忠告に陽之衛の口が少し引きつる。
運よく瑞兎は見逃していて、「不届きなやつがいる者ですね」と熱燗をちょうど飲み切っていた。




