39話 理不尽だけれど
ふと、目の前でねずみが数匹走っていった。
場違いな動物たちに驚き目を見開いたとき震える肩にだれかの手が置かれた。
その手はひやりと冷たく、瑞兎の首筋をくすぐるようになぞり、だが力任せに襟を無理やり引っ張ってくる。
露わになったうなじを指で数回叩かれた。
「見えるかい」
優し気な声色なのに、そこにはどうしようもできない無関心と、冷酷さが含まれていた。
瑞兎は〝なにが起きたのか〟を察してしまい、ガチガチと歯を鳴らし、なんとか短く呼吸を繰り返したが顔をあげるのをためらった。
「見えるかと訊いている」
二度めは許されず、恐る恐る顔を上げた。
黒の塊に二匹の白い蛇が絡みついているのがわかり、震えが止まる。
さきほど祠の中にいた蛇たちだ。
間違いない。
その体にまじないの術が刻まれているのもはっきりと確認できた。
「そう。あれがすべての原因だ。あとはもうわかるね」
うなずいた。
その瞬間にずる、とアメノハバギリが背から引き抜かれる。
いきなりの無体にめまいがしそうになったのをこらえて、将志郎を床に丁寧に寝かせて立ち上がった。
背後にいた人物もようやく目の前にやってくる。刀を持った陽之衛だった。
しかし少し背が高く、大人びた雰囲気があった。
瑞兎に微笑みを向けるが、一切の感情は浮かんでおらず、焦点もどこにあるかはわからなかった。
塊の咆哮が響くと、突然感情が芽生えたように嬉しそうに彼は目を輝かせた。
そしてためらいなく刀の切っ先を地面に突き刺し、ピィッと指笛を吹く。
鯨の歌がどこからともなく聞こえてきたかと思えば、剣を突き刺した地面から海水があふれ出る。
天高く上がるがぱっと水柱は消え、潮の雨が降り注いだ。
その雨粒が陽之衛の額にできた傷を消し去り、枯れ葦の動きを抑制する。
「舞え」
一切の拒絶を許さない命令に否が応でも従わなければならない。
瑞兎は言われた通りにするために胸元をくつろげ、懐紙を口にはさみゆったりと手を広げた。
光の粒たちが枯れ葦を包むと舞に合わせて塊を包み込んでいく。
ぷ、と吐き出した懐紙が顔にかかった刹那、塊は女性の形となる。
だが蛇たちが締め付けを強くしたせいでもう一度塊へと戻ってしまった。
「ウムギヒメか。それよりも蛇たちが厄介だな」
そう呆れながら言った陽之衛が振り向く。
瑞兎は兎のように体をビクつかせ、怯えた表情のまま膝をつきひれ伏した。
彼の周りの空気だけが異様に重く、頭がめり込んでしまいそうだ。
陽之衛、いや、もう彼は陽之衛とは違う。
鋭い目が瑞兎を見たが、死にかけている小動物に哀れをかけているにも似た視線だった。
「畏れながら、……──スサノオ、ッ!」
ヒュ、と喉が締まった。
喉に痛みが走ったせいで彼にかっ切られたのかと勘違いし、慌てて肌を擦るがなにも変化はない。
今にも血が吹き出そうな想像が脳内に流れてきて、ドッと噴き出した冷汗と脂汗が瑞兎の額と胸元を濡らした。
「皆まで言わなくて良い。あれを切れば済む話だ。そうすればこの体はまた戻る」
もう二度と言葉を発さず瑞兎は地面に頭を擦りつけた。
頭の中で「陽之衛様を返して欲しい」と念じ続け、恐怖に飲み込まれそうになった意識を引き留める。
「そうだね。姉さんの気が許すまでは、私はお前が大好きな〝人間〟の高千穂陽之衛でいられる。いつまでも守られるばかりで、相変わらず弱々しいうさぎだこと」
咎めるような言葉に肩を跳ねさせる。
呆れは通り過ぎたようで、『スサノオノミコト』はアメノハバギリについたつゆでも払う程度の動作で横に振った。
すると短い悲鳴のあと枯れ葦と蛇が真っ二つに切られていた。
その一閃はさらに空間をも切り裂いたのか、バキン、と鳥居の向こうが半分に割れる。
続けてできたヒビの向こうには壊れていない鳥居がかすかに見えた。
「蛇はまだほかにもいるよ。気をつけなさい」
その一言を残して陽之衛の意識が飛んだのか、膝から崩れ落ちて倒れた。
わ、と駆け寄って抱き留めつつ傷の様子と呼吸を確認する。無事だとわかり全身の力が抜けた。
(よかった、今回は戻ってくれた……。そうだ、将志郎さんの方も確認しない)
立ち上がりたくてももうどこにも力が入らず、陽之衛の上に覆いかぶさっていた。
降り注いでいた潮が辺りを洗い流していったらしく、道も社殿も元に戻っていた。
賽銭箱の横で将志郎が倒れているのがなんとか横目で見えた。
ふがいなさが腹の奥で怒りとともに煮えたぎっている。手も足も出なかった。
スサノオから放たれる鋭い切っ先が常に喉元に突き立てられているような感覚に抗えなかった。
葦は神に逆らうなどという愚かなことは天地がひっくり返ろうとも不可能だ。
気絶している八重に意識があるのか、元の葦たちと同じように戻れているのかも、どう千代に言い訳すればいいのかも思いつかなかった。
悔しい。
なにもできなかったことが悔しくて涙で視界がさらにボヤける。
あげくの果てに主人が傷つき、スサノオノミコトが出てきてしまった。
絶対にそれだけは避けろとあんなに注意されていたのに。
今回は術でできた異界の中だったから事なきを得たけれど、外だったらどんなことが起きていたかは恐ろしくて考えたくもない。
ごと、となにかが遠くで落ちたのにハッと涙が一度止まる。
視線だけで探してみれば人が転がっていた。
外国人の女だ。
彼女が取材に来ていた人だろうか。
おそらく巻き込まれていた人間たちも現実に返ってきているのだろう。
そして遠くの方からこちらに呼びかける声が聞こえた。
それもそのはずで、すでに空が暗くなってきている。
長いこと帰ってこない瑞兎や八重たちを心配した村人が来ているようだ。
この惨状を見て悲鳴をあげるのは容易に察しがつく。
しかし瑞兎も限界だった。
生ぬるい風が頬を撫でた瞬間、意識が途切れた。




