24話 烏の長
足音も気配もいまこの瞬間に生まれたように前触れがなかったせいで、瑞兎は隣に人がいるというのを最初は気づかなかった。
「こんにちは、八咫の姉御。まだ準備中で……」
親父の呼びかけにようやくだれかが隣に来たと知り、驚きのあまり椅子から尻をわずかに浮かせる。
警官の制服に身を包んだ大柄な女は店主の言葉に、シ、と薄い唇に指を当てた。
張り詰めた空気に、瑞兎は思わずごくりと唾を飲みこむ。
陽之衛の様子を横目で確認すれば眉間にしわを作って不機嫌そうに頬をつき、親父をにらんでいた。
八咫女史も出された茶をゆっくりと味わっていて、こちらに対しては興味を示そうとしていない。
辺りに飛んできた烏の鳴き声が観客かと思うほど大きくなってきた。
瑞兎の脳内に彼女が烏派と呼ばれていたこと、そして名前とつなぎ合わせて『ヤタガラス』という言葉が浮かんだ。
八咫烏は霊獣だと鹿島から聞いた。
まさか葦たちと同じように人間界に紛れ込んでいるとは考えもしなかったが、この烏の量を見るに本当のことだろう。
彼女は八咫烏の長なのだ。
「大事はありませんね」と不意に八咫が声をかけてきたせいで、また驚いてしまいすくったうどんが箸から落ちて汁が跳ねる。
「昼に署内に来たと報告を受けました。かまいたち事件の管轄はこちらです。なぜ私に話を聞きに来なかったのですか?」
予想だにしていなかった問いに戸惑った。
彼女は咎めているわけではなく、どちらかというと本心から理解できないと言いたげな雰囲気だった。
昨晩聞いた厳しい声とは打って変わり落ち着いた親しみのある態度を取っている。
陽之衛と八咫を交互に見、瑞兎はたどたどしくかぶりを振った。
「一応部外者ですし、その。あくまで依頼の調査をしていただけです。それに鹿島様とは懇意にしてますから」
「怒られると思った、と素直に言えばよろしい。悪いことをしている自覚が少しでもあると、物事を見極める力が鈍りますよ。気をつけなさい」
まるでいたずらをした子を叱るような口調にさらに混乱が強くなる。
文句を言うためにわざわざ来たのだろうか。
辺りが一瞬だけ妙に静かになった。
けれど烏が一羽だけ八咫の隣に降りてきたおかげでかろうじて静寂はなくなる。
烏は嘴にハンカチをくわえていたのだが、八咫が受け取って湯呑みの横に置いた。
鋭い視線が瑞兎に「調べてみろ」と伝えてくる。
ややぁっと確認するために掴むと、まじないを解くこともなく葉に変わった。八咫が二つほど首を縦に振り、別の烏に葉を預ける。
「そっちは将志郎を容疑者だって決めたんじゃないの?」
「もちろんです。ですが、不可解な点が多く議論の余地があると認めざるを得ません」
「ぜんぜん話が見えないんだけど」
「貴方たちが被害者の一人と面会したあと、そのほかの被害者たちが一斉に『由良将志郎に危害を加えられた』とはっきり証言してきました」
淡々と告げられた内容は耳を疑うものだった。
八咫は青年たちの絶句を気にも留めずに、一度喉を潤してから続ける。
「被害者自らの証言は絶対的な力を持ちます。即座に警察は動き、次の予兆があれば彼を確保できるよう支度を整えました。そして彼が人目を遠ざけるように女性を連れて大学を離れたと通報があったから対応したまで」
「でもあのとき将志郎はだれも傷つけていなかった」
「未然に防ぐのも我々の役目だと認識しています。実際にそちらの彼女は、失礼。彼は無傷で済みました」
物は言いようだ。
瑞兎は反省がぶり返してきたせいで身を縮め、うつむく。
平行線の議会ほど聞くに堪えないものはない。
夜風すら呆れて吹くのをやめてしまった。
失態に落ち込む世話役とは違い、突破口を見つけ出そうとしている陽之衛が指を鳴らす。
「将志郎を烏で見張ってたんだな。依頼してきたのも知ってたか。それで? どんな議論の余地があるって?」
喧嘩を吹っ掛けてやると言わんばかりの陽之衛の質問に、八咫も口角をゆるく上げた。
これからの舌戦を予期したかのようにぞくりと瑞兎の背骨がうずいた。
なるほど、この人が陽之衛の師匠だというのがほんの少しつかめた気がして恐ろしさに身が縮まる。
気づけば屋台の周りに烏たちが黒い海が作っていた。
カァカァとひっきりなしに鳴く彼らは長たちを煽っているようだ。
「葦が関わっているかどうか、に決まっています。若君が裏で遊んでいらっしゃるということは、少なくともその線を考慮するに足りましょう。であれば可能性はすべて潰すべき。おのずと由良家のご子息が真犯人かどうかも証明できるのでは?」
「違ったら責任はどうとるつもりなの。というか、絶対に違うんだから身の振り方を考えておきなよ」
「ふっ、そのような心配をだれがするものですか。上の首が一つ飛ぶくらいどうでもよい」と八咫は肩に留まった鳥の嘴を撫でる。「我らは人間の蛮行を見張るために紛れているのです。そちらとていつまで自分たちで不始末を拭えると? 人間がそれほど大事ですか?」
「大事に決まっています!」
瑞兎の叫びに烏が飛び立った。
どうしてこの人は人間をバカにしているのだと怒りがわいてくる。
陽之衛を真似て言うのなら「面白くない」。
八咫のやり場を失った手が宙をかいてから膝の上に戻った。
呆れたことを示すため息が出たのちに、やはり子どもに注意をする母のように見下ろしてくる視線に不快感が湧いてくる。
「実に葦らしい反応ですね。よろしい、害を及ぼす悪しきモノにこそ罰を与えねばなりません」
そう言って一枚の紙を取り出した。
これを出すか判断するために長々と話していたらしい。
瑞兎が中を確認すれば、絵が描かれている。
証言したうちの一人が手掛かりになればと聴取の際に作成したものだそうだ。
「枯れ葦と似てる……」
人間らしき物の上に、膨らんだ影が浮かんでいる。
かなりあいまいな絵ではあるが、瑞兎たちがよく知っている姿を彷彿とさせた。
「久方ぶりにいい議論ができました。それでは、おや? 夜道にお気をつけてと言ったはずですが、まさか知らんぷりしたのですか?」
「え? あ、──クソ、もっと早く気付くべきだった!」
陽之衛の顔が歪んだのがうれしかったのか、八咫は三人分の料金をまとめて払ってその場を後にした。
烏たちも彼女について行ったので周囲は突然静かになる。
取り残された瑞兎は陽之衛のそでをそっとつまんでゆすってみる。
彼らの会話は少々難しいところが多く、よくつかみ切れていなかった。
一瞬で喉がからからに乾いたのか、かさついた声を出しながら陽之衛が指を鳴らし続ける。
「あの絵を見るに、犯人は葦だ。それにもう枯れかけている。だったら標的が捕まったところで簡単に止まるとは考えにくい。八咫め、俺を顎で使おうって魂胆だったな」
だったらまだ瑞兎の足を傷つける機会をうかがっているかもしれない。
都合よく夜も更けてきているじゃないか。
一か八かに賭けて、二人は現場に戻るために席を立った。




