22話 やれることをやっていこう
いったん家に帰るために駅に入るが、ふ、と突然足の力が抜けてその場にしゃがみこんでいた。
地面と目が合う。
転ぶのだけは耐えられたが、荒い波の上の船に乗っている気分だ。
脳が揺れ、視界を水平に保っていられない。
(苦しい。心臓が痛い、あれ、呼吸ってどうやるんだっけ)
わからなくなり余計につらくなった。
心臓が不規則に脈を打っているのが耳の奥から聞こえる。
そして視界からじょじょに色が消えていった。
『ハメられた──!』
脈の音に紛れて陽之衛の叫びが記憶の奥から聞こえてきた。
胸元が苦しくなり強く掴む。
苦しさから逃れたくて、記憶を手で掻き乱した。
(どうしてあの時、将志郎さんは例のハンカチを持っていたんだ。若はいつ気が付いたんだろう。そもそもどうして彼に告白をしようとしていたんだっけ。私は、なにをするためにあそこに……)
平気だと鹿島に啖呵を切ったのは、陽之衛の従者としての立場があったからだった。
ひとりになっていま、ようやく不甲斐なさが津波となって襲ってきたのだ。
おぼれた瑞兎の肺からどんどん酸素がなくなっていく。
意識が遠のくも、背中をだれかに叩かれ激しく咳き込んだ。
しかしそのおかげで肺にたまった水が抜けていく感覚がした。
「どうしたんだい、白兎さん。さては和邇にいじめられたな?」
恐る恐る振り向けば、まだ家で寝ているはずの主人がニヤニヤ笑っていた。
普段通りのからかい口調にムッと苛立ちを覚えたが、明るい顔色に戻っていることに安心もする。
「毛皮をはがされちゃたのか。痛くて仕方ないんだね、かわいそうに」
「わ、若様。私は因幡の兎ではありません……」
「知ってるよ。こうすれば俺に助けを請うかなって試しただけだし。つまらないんだから」
ふん、と鼻を鳴らした陽之衛にやっと全身の膠着状態が溶けた。
頬をつねられ「ぎゃあ!」と駅に悲鳴を響かせる。
それで満足したのか、陽之衛は瑞兎を立たせ、着物に付いたほこりを払い落としてくれた。
「眠れましたか?」と瑞兎はクマの加減を確認した。
薄くなっているのに安堵するが、陽之衛が眉をひそめた。
「術まで使って寝させるなんて、熟睡だった! それにいろいろ頭の中もまとまってきてる。でもまずは、その、……ごめん」
「え? いまなんて?」
「ご、め、ん! 二度は言わないから。さすがに今回のは俺も堪えたんだって。目の前で友達が捕まるわ、瑞兎が倒れるわ」
そっぽを向いて口をすぼめた陽之衛に、瑞兎はきょとんとして、意識がまた途切れそうになる。
(あの若様が謝るなんて、やはり自分は洪水に飲まれて夢でも見ているのか?)
馬鹿なことを考え盛大に頭を横に振る。
こんなところでご機嫌ななめになられたら意味がないんだから。
一、二呼吸ほど置いてから「すみません」と瑞兎も謝り、陽之衛の寝癖を手で直した。
どうやら慌てて家から飛び出してきたらしく、頬には布団の跡がついていた。
「警官たちに囲まれたとき、もし瑞兎がちょっとでも抵抗していたらみんな無事では済まなかった。改めてどれほど人間を大事に思ってるか痛感したよ」
「いやいや、さすがにそんな力はもうないとわかっておいででしょうに。私だって若が刀を出せと無理強いしてこなくてよかったとほっとしてますよ」
「そんなことしたらその場で天罰が下って木っ端みじんになってただろうね。なるほど、あの場ではお互いに最善の働きをしたってことだ」
また背中を軽く叩かれた。
お返しに瑞兎も肩で陽之衛を小突くと、やり返される。
数回繰り返して、二人はつきものが落ちたように笑いあっていた。
「瑞兎、もう大丈夫だから」
そう言って陽之衛が手を差し出してくる。
マメができた皮の厚い手のひらは顔の幼さに比べれば異質に感じる。
一長一短では到底できないマメは刀を振るうために生まれた努力のあかしだ。
厳かな気持ちで手を上に重ねる。
「俺が負けるわけないだろ? あんぽんたんの将志郎め、瑞兎を泣かせるなんてひどいやつ。助けてやったらしばらく荷物運搬係に任命してやるんだから」
「だめですよ。でもパーラーのパフェをおごってもらいましょう。依頼料とは別で!」
陽之衛の手をぎゅっと握った。
太陽のように温かい熱が伝わってきて、冷えていた体に血がめぐりだす。
(やっぱり若が元気でいなくちゃ、私は何もできないや。……よかった。きっと全部上手くいくって安心してる)
けれど寂しい気持ちもほんのわずかだけ芽生えた。
刈穫が行えない自分のせいで、彼に大きな負担をかけているのも知っている。
それでも瑞兎は陽之衛がまとう頼もしさに身をゆだねるしかない。
彼に刈穫の役目を渡したときから、瑞兎は陽之衛のそばに仕え、彼のすべてを支えると選んだのだ。




