2話 従者で給仕でお世話役です
都会から電車で数駅走ったところに芦原という村がある。住人は少なく、森や畑の方が多い静かな田舎だ。
生い茂った木々が影を作る小道を抜けると、大きな白い洋館が現れる。
黒い木製の重厚な玄関扉の横に銅製の縦型看板がたてかけられているが、文字はかすれており、かろうじて『高千』だけはわかる。
そのほかにこの屋敷の持ち主の名前を示す表札はなかった。
庭では長い髪の青年が台上に付いている皿へ水を注ぎながら鼻歌を奏でていた。
艶のある青みがかかった黒髪をひとつに結い、着物の上から割烹着を来ている彼は、この家の使用人である瑞兎という。
すらりと背筋をまっすぐにし、水を注ぐだけでも優雅な仕草で、体型は男性そのものであるのに中性的な印象も混じっている。
まるで神楽や能などの一場面のように繊細で、当たっている光も相まって厳かであった。
「相変わらず起きてきませんね……。まったく、昨晩は何時に寝たんだか」
やってきたすずめたちに微笑みかけたが、うっかり毎日飽きずにこぼしている愚痴も一緒に出た。
ハ、と口もとを手で覆ってから辺りを見回し、胸をなでおろす。文句を向けた先の主人がいたら、どんな折檻をされるか考えるだけでもたまったものではない。
瑞兎は台所へ戻り、手早く朝ご飯の準備を済ませると食堂の大きな一枚板の机の上にきれいに並べた。
自分は台所で簡単なものを食べ、皿を洗い場に入れたところで、外から鶏の鳴き声が聞こえたので慌てて勝手口から庭へ飛び出す。
あぶない、卵をつけるのを忘れていた。これでは〝若様〟のご機嫌が悪くなるところだった。
そしてちょうど茶碗の横に採れたての卵を置いたところで、廊下の方からけたたましく引き戸が開く音が響き、瑞兎は体を縮こませた。
「おはよう、瑞兎。ずいぶん晴れちゃったね」
「おはようございます。若のご挨拶と同じ、爽やかな朝ですよ」
ドタドタと駆けてきて食堂の入り口に立ったのは、学ランを着た愛らしい顔の青年、陽之衛様だ。
この家の当主である若様である。
くりくりとしたどんぐり目と短く切られた栗毛の髪がやんちゃな雰囲気をのぞかせ、威勢よく中に入ってくると椅子に腰を下ろした。
勢いに床が少しきしんだ音を立てる。
「ろくなもんじゃないだろ。見張られている気がして休まらないもの」
「その通り、天照大神様が葦原を見守ってくれているようです」
「聞き取り間違えたの?」
「いいえ、きちんと聞きました」
「言うようになったね。だったらせめて面白いことが起きるように願ったら叶えてくれると思う?」
いたずらっぽく笑った若様に、瑞兎が眉間にしわを寄せ、げぇっと口を横に広げた。
「嫌がられるに決まってるでしょう。若がいくら晴れがお好きでないにしたってあんまりな願いです」
「そこまで言うとは。ただこの卵から鷲が生まれたら、ってくらいだよ」
楽しそうに箸を指揮棒のように扱ったので、咳払いをしてやめさせた。
陽之衛が頬を膨らませて抗議してくるが、ぷぃと顔をそらして見なかったことにする。
「なにを夢みたいなことをおっしゃってるんですか」
「楽しそうじゃん! その鷲で狩りをしたいな。大きな家の鯉とか、蛇とか」
けらけらと楽しそうな主人の戯言にため息が出た。それから陽之衛が持ったままだった卵を奪ってお椀の上で割り、適量のしょうゆをかけてかき混ぜてうっ憤を晴らす。
「あぁ、鷲が……」
「鷲なもんですか。この卵は私が先ほど庭の鶏舎から取ってきたばかりのもので、きちんと鶏の真下にあったし、まだ温かさが残っていました。つまりお望みのようなことはまったく起こりえません。断じてです」
「どうしていつも冷や水をぶっかけてくるんだ。瑞兎のわからず屋」
「若には立派な官僚になってもらうべく、きちんと学校に通い勉学に励んでいただきたいのです」
「また勝手にそんなことを言うなっ」
機嫌が斜めになった陽之衛が懐から何かを投げつけてきた。顔に張り付く前に掴み取ればねずみだった。
手の中でじたばたと暴れて「助けて」と言いたげに悲痛な声で鳴いている。瑞兎も思わず、ぎゃあっと叫んだ。
「どこからこんなものを持ってきたんですか!」
「実験に使ってたんだよ。人の言葉をしゃべらないかなってずっとラジオを聞かせてみたんだけど、ちゅうちゅう鳴いてばっかりでてんでだめだった」
「まったく、もう……」と窓を開けてねずみを逃がしてやった。もう二度と捕まるなよ、と念を込めて見送る。
それから瑞兎はこれ以上は埒が明かないと食堂を出て、玄関にかけてあった陽之衛の外套のほこりを払い、ほつれがないか確認することで苛立ちを静めることにした。
高貴な御方である若様がボロボロの服を着ているなどあってはならない。
ハサミで糸を切り取ると、ご飯を食べ終わった陽之衛が食堂から出てきて瑞兎に学帽をかぶせてきた。
「一緒に学校に通えばいいのに。そしたらあんなつまらないことを言わなくなるかも」
「私は若のお世話と舞の稽古で忙しいのです。頭もよくありませんし。ほら、早く行ってください」
「ちぇ、ならご希望通り励んできますか」
不服そうにしていたがぐいぐいと瑞兎に背中を押されたので、陽之衛は学帽をかぶり直して元気に外に出て行った。
背中が見えなくなってから、瑞兎ももう一度ため息を吐く。室内に戻り、隠し部屋の戸を開いて、神棚のお神酒を取り換えるついでに手を合わせた。
(若様が健康でいられますように)
祈りを込めて柏手を打つ。幼いころから面倒を見てきた大切な若様へ瑞兎ができるせめてものお節介。大事な日課だ。
(でも変な願い事はいつも通り無視してください!)
これも毎日繰り返し付け加えている大事なお願いだった。




