第七話 玄太郎の帰る故郷
……ん…。
誰かの声が聞こえる。
ここはどこだろう。
ぼんやりと景色が浮かび上がってきた。
畳の匂い、木造の家、見知らぬはずなのに、どこかで嗅いだ匂い。
そして。
『嫌なら結婚しなくてかまいません』
「えっ?」
向日葵は思わず目を見開いた。
目の前には若い男女。
いや、違う。
若い毬婆ちゃんだ。
おさげ姿の少女は、自分とよく似た顔をしていた。
その向かいに座る青年。
白いシャツ姿の玄太郎。
少し緊張した表情で、真面目な顔をしている。
『親が決めた話です。嫌なら断ってください』
向日葵は上から二人を見下ろしていた。
まるで映画を観ているようだった。
けれど次の瞬間、景色が変わる。
今度は結婚式だった。
角隠しを被った毬。
紋付袴の玄太郎。
『お、おれで良かったのですか?』
玄太郎が恐る恐る尋ねる。
すると毬は恥ずかしそうに微笑んだ。
「私なんかで良かったですか?」
二人の会話に向日葵は自然と笑みがこぼれる。
幸せそうだった。
本当に幸せそうだった。
だが。
また景色が変わる。
『行くしかない。毬、分かってくれ』
「玄ちゃんが行かなくても日本は負けます!」
居間で向かい合う二人。
泣きそうな顔の毬。
苦しそうな玄太郎。
そして最後の場面。
駅のホーム。
列車の窓から身を乗り出す玄太郎。
見送る毬。
『行ってくる……』
何かを言おうとしている。
けれど言葉にならない。
「待ってます」
涙を流しながら毬は笑った。
「ずっと待ってます」
その瞬間。
『空襲だ! 起きろ、ひまり!』
「……はいはい」
向日葵は布団の中で目を開けた。
見慣れた天井、朝だった。
『夢……か』
頭の中から玄太郎の声が聞こえる。
「おはよう、玄ちゃん」
『おはよう』
少し間を置いて、
『中々スマホ箱の音には慣れぬな』
向日葵は苦笑した。
「玄ちゃん、さっきの夢……」
『夢?』
「ううん、なんでもない」
玄太郎は覚えていない。
でも向日葵には分かった。
あれは夢じゃない。
玄太郎の記憶だった。
そしてそれは、玄太郎と毬だけの大切な時間。
自分が踏み込んではいけない場所のような気がした。
学校へ向かう途中だった。
「あれ……?」
向日葵は立ち止まる。
小学生の頃から通っていた駄菓子屋。
夏はアイスを買い、冬は肉まんを頬張った場所。
優しいお婆ちゃんが、いつもおまけを一つ多く入れてくれた。
その店が無くなっていた。
更地になった地面に、雑草が風で揺れている。
胸がじわりと痛んだ。
「……なんかやだ…。」
『ひまり?』
「胸がズキズキする」
すると玄太郎の感情が静かに伝わってきた。
『これからは感じることが増えるかもしれんな』
「え?」
『建物や田畑、山や空の景色』
『匂いもそうだ』
『時間と共に変わる』
『悪いことではない』
少し寂しそうに玄太郎は続ける。
『だが、人は二度と帰れぬ時間を慈しみ、切なく思う』
「……分かんない」
『そうだろうな』
玄太郎は笑った。
『建物だけではない』
『大切な人と過ごした時間も同じだ』
向日葵は首を傾げる。
「やっぱり分かんない」
『そのうち分かる』
しばらく歩いたあと。
玄太郎が突然尋ねた。
『ひまり』
「なに?」
『毬が居なくなると寂しいか?』
向日葵は即答した。
「嫌だよ」
『そういうことだ』
「でも、それとこれとは違うよ」
『そうは思わん』
「出た……」
向日葵は呆れながらも笑った。
玄太郎もまた笑っている。
そして向日葵は知らなかった。
玄太郎の胸の奥にある故郷もまた、もう存在しないことを。
山も、田畑も、人も。
八十年という時間は、すべてを変えてしまった。
それでも…。
帰りたい場所だけは、今も玄太郎の中に残り続けていた。




