第三話 令和に触れる昭和人
昼の法事も終わり、本家の中は静かになっていた。
親戚たちはそれぞれ帰り支度を始め、廊下の向こうからは食器を片付ける音だけが聞こえてくる。
向日葵は客間の机に教科書を広げ、大きくため息をついた。
「もう無理……」
数学の課題を来週提出。
けれど問題文を見ても、何を書いているのかすらわからない。
「こんなの提出できないよ……」
半泣きになりながら机に突っ伏す。
すると頭の中から呆れた声が響いた。
『そうは思わん』
「出た……」
『何故そこで諦める?』
「だってわかんないもん」
『こんな問題がわからんのか?』
「玄ちゃん解いてみなよ」
半分やけくそで言うと、
『身体を借りるぞ』次の瞬間だった。
ふっと身体の力が抜けたが、意識はある。景色も見えている。
けれど、手だけが自分の意思とは別に動き始めた。
カリカリ、と鉛筆が迷いなく走る。
「え?……」
一次関数、二次方程式、証明問題。
どの問題も躓くことなく答えが埋まっていく。
十分後。
真っ白だったプリントは全て埋まっていた。
『終わったぞ』
身体の感覚が戻る。
向日葵は課題と玄太郎の感情を交互に感じながら目を丸くした。
「玄ちゃん凄い!」
『飛行機を飛ばすには数学と物理が必要だからな』
『燃料計算を間違えれば墜落する』
「頭良かったんだ」
『当然だ』
少し得意げな感情が流れ込んできて、向日葵は思わず吹き出した。
「ありがとう!」
『礼には及ばん』
向日葵は少し考えて立ち上がる。
「じゃあ、お礼に面白いもの見せてあげる」
『女子が夜に出歩くものではない』
「家の中だよ!」
笑いながら向かった先は毬婆ちゃんの部屋だった。
「おばあちゃん、入っていい?」
「向日葵ちゃんかい?どうぞ」
「体調良くなったかい?」
「うん、もう大丈夫だよ。」
毬婆ちゃんは布団の上で小さな写真を見つめていた。
「それ、玄太郎爺ちゃん?」
「うふふ。そうよ」
差し出された写真には若い男女が並んでいた。
「これしか二人の写真が残ってないの」
毬婆ちゃんは懐かしそうに写真を撫でた。
『毬……』
頭の中から切ない声が漏れる。
「お見合いの日まで顔も知らなかったのよ」
「嫌じゃなかったの?」
「嫌だったわよ」
毬婆ちゃんは笑った。
「知らない人と結婚なんて嫌だったもの」
「じゃあ何で?」
「玄ちゃんがね、最初に言ったの」
少し目を細める。
「『嫌なら断ってください』って」
向日葵は笑ってしまった。
「それだけ?」
「変わった人だったのよ」
『そんなこと言ったか?』
頭の中で玄太郎が呟く。
「忘れてるの?」
『覚えておらん』
向日葵はスマホを取り出した。
「おばあちゃん、この写真とこの写真借りるね」
向日葵は毬と玄太郎それぞれの写真を取り出し、
『何だその小箱は』
「スマホだよ」
『鏡か?』
「違うって」
写真を撮り、玄太郎の遺影も写す。
画像編集アプリで二枚を並べた。
若い毬と玄太郎。
二人が寄り添う一枚の写真になった。
「出来た!」
毬婆ちゃんに見せる。
「……あ」
震える指で画面を撫でる。
「玄ちゃん……」
涙がぽろぽろと落ちた。
「こんな写真……初めて……」
『すまない、毬……』
胸が締め付けられる。
それが自分なのか玄太郎なのか、向日葵にはもうわからなかった。
玄太郎の感情が流れ込んできて、向日葵の目にも涙が滲んだ。
部屋を出た後、向日葵はスマホを眺めていた。
ふと検索画面を開く。
「太平洋戦争」
何気なく入力した。
知覧、特攻隊、海、若い兵士たち。
その瞬間だった。
玄太郎の声が消えた。
「玄ちゃん?」返事がない。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
『……嫌な気分だ…。胸が苦しい』
『何か…。大事な何かを忘れている…。』
玄太郎の声は低く重く怒り混じりな声が頭に響いた。
向日葵は息を呑む。
『海の匂いがする…。』
初めて感じる玄太郎の恐怖。
「玄ちゃん……戦争って怖かった?」
長い沈黙。
そして、
『そうは思わん』
向日葵は玄太郎の口癖を聴いて少し安心した。
だが続いた言葉は静かだった。
『怖いと思う暇も無かった』
その夜。
向日葵は初めて知った。
自分の中にいる青年は、戦争で命を落とした人なのだと。




