第二話 法事
母が病院に迎えに来たのは夕方だった。
精密検査の結果は異常なし。
七十七回忌の最中、お線香の匂いで気分が悪くなり、そのまま意識を失ったらしい。
私の記憶もそこまでだった。
気が付けば病院のベッドの上で、誰もいないはずの相手と会話をしていた。
『そうは思わん』
頭の中から声がする。
『意識を失うのは健全な女子にも起こりうることだ。女性特有の月のものや貧血など、様々な要因が考えられる。人体を理解することは――』
「うるさい!」
病院の待合室で思わず声が出た。
周囲の視線が集まり、慌てて口を押さえる。
毪婆ちゃんから聞いていた玄太郎爺ちゃんは、それはそれは優しい人だったはずだ。
なのに、実際は理屈ばかり並べる変な人だった。
『屁理屈ではない。人体を理解すれば病気の初期症状を――』
「もう黙って……」
頭を抱えながら病院を後にする。
今夜は本家にもう一泊し、明日自宅へ帰る予定になっていた。
本家にはまだ親戚たちが残っていた。
七十七回忌は、毪婆ちゃんが以前から望んでいた法事だった。
食事の席では、大人たちの小さな声が聞こえてくる。
「もう八十年近いのにねぇ」
「お婆ちゃんの気持ちなんだろうけど……」
皆、忙しい中で集まってくれたのだろう。
私だって学校と部活を休んで来ている。
だから気持ちはわからなくもない。
でも。
故人を偲ぶ時間が必要な人もいるのだと思う。
私はまだ理解できない。
だって私は、まだ恋を知らないのだから。
『そうは思わない』
玄太郎の声が響く。
『ひまりの前に、まだ現れていないだけだ』
「玄ちゃん、目の前に毪婆ちゃんいるんだから、そっちに入りなよ」
思わず口から出た。
少しの沈黙。
『玄ちゃん……か』
どこか照れたような声だった。
『間違いではないが』
そして、目の前で親戚たちに囲まれている毪婆ちゃんを見つめながら、玄太郎がぽつりと呟いた。
『毪は変わらんな。昔のままだ』
私は思わず吹き出しそうになる。
目の前にいるのは九十を超えた毪婆ちゃんだ。
どう見ても十代には見えない。
「玄ちゃんには若く見えてるの?」
『そうだが?』
迷いのない返事。
どうやら玄太郎には、若い頃の毪婆ちゃんの姿のまま見えているらしい。
それはそれで幸せなのかもしれない。
「じゃあ、なんで私の中にいるの?」
『わからん』
「え?」
『ひまりから出られん。自分でもどうやって入ったのかわからん』
あまりにも堂々と言うので、私は思わず笑ってしまった。
「そこは理屈を言わないの?」
『屁理屈ではない!』
『わからんものは、わからん!』
『さっぱりわからん! 』
変な人だ…。本当に変な人…。
でも、嫌ではなかった。
その時だった。
祭壇の遺影を見つめながら、玄太郎が小さく呟いた。
『この法事は……毪がおれの為にしたのか』
『そうか……』
その瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
痛みではない。
悲しみとも少し違う。
大きな何かが胸いっぱいに広がっていく。
それが玄太郎の感情なのか。
それとも私自身の感情なのか。
まだ、わからない。
ただ一つだけ。
八十年近く経った今でも。
曾祖母は、曾祖父を想い続けている。
その事実だけが、静かに胸に残っていた。




