第十二話 迎え
本家を出る時、毬は玄関先まで見送りに出てくれた。
「またおいでね」
「うん」
向日葵が靴を履くと、毬は少し悪戯っぽく笑った。
「今度も玄ちゃんを連れてきて」
向日葵は思わず吹き出す。
「だから見えてないでしょ」
「どうかしらねぇ」
毬は楽しそうだった。
その笑顔はいつも通りだった。
元気そうで、明るくて、 何も変わっていない。
だからこそ向日葵の胸に残る不安の正体が分からなかった。
玄太郎はあれから何も話さない。
『そういうことか……』
そう呟いてから、ずっと沈黙したままだった。
「じゃあね」
手を振る。
「気をつけて帰るんだよ」
夕陽の中で手を振る毬を見ながら、向日葵は本家を後にした。
電車へ乗り込む。
窓際の席へ座ると、列車はゆっくり動き始めた。
聞き慣れた揺れが身体に伝わる。
踏切を通り過ぎる。
カン、カンという警報機の音が遠ざかっていった。
向日葵は窓の外を見つめた、流れる景色。
沈み始めた夕陽、住宅街の屋根。
どれだけ待っても玄太郎は何も言わない。
「玄ちゃん」
返事はない。
「玄ちゃん?」
沈黙。
胸の奥がざわつく。
一つ目の駅を過ぎる。
二つ目の駅を過ぎる。
そして三つ目の駅を出た頃だった。
突然、声が聞こえた。
『呼ばれたのではなかった』
向日葵は顔を上げた。
「え?」
玄太郎の声は妙に静かだった。
まるで全てを受け入れてしまった人のように。
『毬の死期が近い』
向日葵の思考が止まる。
「何言ってるの?」
思わず声が大きくなった。
周囲の乗客がちらりとこちらを見る。
それでも構わなかった。
「毬おばあちゃん元気だったじゃん!」
『分かっている』
「だったら!」
『分かっている』
その声は優しかった。
優しいからこそ苦しかった。
『毬がおれを感じ始めている』
窓の外の景色が流れていく。
『法事の頃からずっと、おれを感じていた』
向日葵は言葉を失った。
『迎えに来たんだ』
「え?」
『おれが』
向日葵は首を振った。
「嫌だ」
『……』
「そんなの嫌だ」
胸が苦しくなる。
「やっと会えたじゃん」
「やっと帰る場所を見つけたじゃん」
「なのに何でそんな事言うの」
玄太郎はしばらく黙っていた。
そして静かに語り始める。
『知覧で思い出した』
向日葵は息を呑んだ。
『最後の日を』
油の匂い、熱い機体、轟音。
それらが突然流れ込んでくる。
『おれはあの日、青い空に飛んだ』
向日葵の胸に冷たい感覚が広がる。
『目的地に迎う途中、たくさんの戦闘機に追われた』
『弾が当たり、海へ墜落した』
息が出来ない、肺が焼ける。
冷たい海水が身体を包む。
恐怖と絶望。
どうしようもない孤独。
『苦しかった』
玄太郎の声が震える。
『叫び続けた…』
向日葵の目から涙が零れた。
『死にたくなかった』
『帰りたい』
『娘を抱きたい』
『……毬に会いたい…。』
窓の外の景色が滲む。
『海の底へ沈みながら』
『何も伝えれず、何もしてやれない後悔…。』
その悲しみが向日葵の胸を締め付ける。
しばらくして玄太郎は続けた。
『長い眠りから覚めた時』
『名前を呼ぶ声が聞こえた』
向日葵は黙って耳を傾けていた。
『その声を追って歩いた』
『気が付けば毬の側にお前が倒れていた』
向日葵はあの日を思い出す。
息が出来なくて意識が遠のいた、あの日を。
『あの時、お前も苦しそうだった』
『本当なら、おれは毬のところへ辿り着いていたのかもしれん』
『だが、海へ沈む時の苦しさと、お前の苦しさがどこか似ていた』
『そのせいで、お前と繋がってしまったのかもしれんな』
玄太郎は少しだけ苦笑した。
『本当のことは分からん』
『死んだ人間に仕組みなど分かるものではないからな』
そして静かに続ける。
『だが今日分かった』
『毬はおれを呼んでいたのではない』
向日葵は息を止めた。
『待っていたんだ』
『ずっと』
八十年。
気が遠くなるほど長い時間。
『そしておれは』
玄太郎の声が優しくなる。
『迎えに来ることができた』
夕陽が車内へ差し込む。赤い光が窓を染める。
向日葵は唇を噛んだ。
認めたくなかった、信じたくなかった。
けれど玄太郎の言葉は不思議なほど自然だった。
まるで最初から決まっていたことのように。
列車は次の駅へ向かう。
窓の外では夕暮れの街が静かに流れていた。
向日葵は俯いたまま呟く。
「まだだよ」
玄太郎は答えない。
「まだ駄目だから」
涙が膝に落ちた。
「まだ二人とも一緒にいてよ……」
車窓に映る自分の顔は泣いていた。
そして胸の奥では、玄太郎の静かな想いが夕暮れの光のように揺れていた。




