第十話 毬
修学旅行から帰った翌日。
向日葵は朝から落ち着かなかった。
部屋の床にはお土産袋が並んでいる。
「毬おばあちゃん用」
小さく書かれた袋を持ち上げる。
中には鹿児島で買った和菓子が入っていた。
『それだけか?』
頭の中から玄太郎の声が響く。
「十分でしょ」
『そうは思わん』
「出た」
向日葵はため息をつく。
『毬は和菓子が好きだ』
『羊羮も好きだ』
『饅頭も好きだ』
『最中も好きだ』
「全部好きなだけじゃん」
『うむ』
全く悪びれない。
向日葵は呆れている。
「これ以上買ったらお小遣い無くなるよ」
『むう』
不満そうな感情が流れ込んでくる。
まるで駄々をこねる子供だった。
「それに九州の写真も見せるし」
『おお』
今度は一気に機嫌が良くなる。
『桜島も見せろよ』
『知覧もだ』
『あの青い海も見せたい』
向日葵は少しだけ表情を曇らせた。
知覧。
その名前を思い出すだけで胸が痛くなる。
だが玄太郎の感情は以前とは違っていた。
悲しみだけではない。
何かを受け入れた後の静けさがあった。
『毬は驚くだろうな』
「そうかな」
『毬が見られなかった景色だ』
その言葉に向日葵は何も言えなくなる。
玄太郎がずっと見せたかった景色も、会いたかった人も、全て止まったまま。
だからこそ今は、スマホの中の写真一枚一枚が宝物だった。
昼過ぎ。
向日葵は電車に乗り本家へ向かった。
窓の外には初夏の景色が流れていく。
『変わったな』
玄太郎が呟く。
『変わらぬものもある』
「なに?」
少し沈黙した後、
『毬だ』
向日葵は笑った。
「はいはい」
『本当だ』
照れもなく返ってくる。
向日葵は窓に映る自分の顔を見ながら思った。
八十年も同じ人を好きでいられるものなのだろうか。
自分にはまだ分からない、が羨ましいとは思った。
本家に着くと玄関の戸が開いた。
「向日葵ちゃん!」
毬おばあちゃんだった。
顔を見るなり嬉しそうに笑う。
「おかえり」
向日葵は少し照れながら答えた。
「ただいま」
このたった一言だが、
玄太郎の感情が大きく揺れた。
まるで長い旅から帰ってきた人のように。
『毬……』
懐かしい声がそして愛しさ。
玄太郎の毬への想い、いや想いだけではない。
様々な感情が向日葵の胸へ流れ込む。
居間へ通されると、さっそくお土産を広げた。
「はい、鹿児島のお菓子」
「まあ、ありがとう」
『ほらみろ、だからもう一つ買えば良かったのだ』
「うるさい」
思わず口に出る。
毬が不思議そうに首を傾げた。
「向日葵ちゃん?」
「なんでもない!」
慌てて誤魔化す。
それから向日葵はスマホを取り出した。
「見て見て」
桜島、鹿児島の街並み、青い海。
修学旅行で撮った写真を次々に見せていく。
毬は一枚一枚を大切そうに眺めた。
「綺麗だねぇ」
『そうだろう』
「玄ちゃんも喜んでるよ」
毬の指が止まった。
一枚の写真。
青空の下に広がる知覧の風景、静かな場所だった。
毬はその写真を見つめたまま動かない。
「そう……玄ちゃんに会ったんだね」
向日葵は息を呑んだ。
『……毬』
玄太郎の感情が震える。
「ずっと帰りたかったんだからね」
毬は優しく微笑んだ。
涙はなかった。
悲しそうでもなかった。
ただ穏やかだった。
夫婦だからなのだろうか…。
二人の気持ちは同じだった。
言葉にしなくても伝わるものがある。
向日葵は初めてそんなことを思った。
向日葵は玄太郎も毬も
その空気に包まれながら向日葵は気付く。
玄太郎が探していた帰る場所。
それは故郷でもなく。
戦前の街でもなく。
若かった頃の時間でもなかった。
ずっと目の前にあったのだ。
玄太郎は何も言わない。
けれど胸いっぱいに広がる感情が全てを語っていた。
向日葵は玄太郎に囁く。
「玄ちゃん」
『なんだ?』
「良かったね」
しばらく返事はなかった。
しばらくして、
小さな声が聞こえた。
『ああ』
その感情は温かかった。
八十年分の寂しさが少しだけ溶けていくような。
夕暮れの光が障子越しに差し込む。
毬おばあちゃんは楽しそうに九州の写真を眺め続けていた。
その隣で向日葵も笑う。
そして誰にも見えない場所で。
玄太郎もまた静かに笑っていた。




